誰かに認められたいと思い「過ぎ」て自分を見失いかけた

じつは先日の記事、twitterで師匠にシェアされたのですよ。何気なくその記事を見に来てくれた人の数をみたら、いつも2ケタなわたしのページに3ケタもお越しいただいて、妙に汗が出た。それでもシェアいただいたり、感想をいただいたりすることはとっても嬉しいので。へらっと笑って喜んだ……はずだったのですが。

シェアしてもらった事実をきっかけに、わたしにとっての「書く意味」が変わったみたい。そして、ものを書く手が動かなくなった。身体も固まっていった。

どう書けば、師匠に喜ばれそうな内容になるのか。誰かの役に立つための内容になるのか。

意識が外へばかり向いて、自分の内側にあるものをきゅうくつの中に押し込んで行く。こんな私の考え方じゃダメなんだ、師匠や弟子仲間のために書かなければ。どんどん、きゅうきゅうと心を引き絞って、何を書いたら正解なのかわからなくなってくる。そして、みなに気に入られたいという思いが強くなりすぎて、勝手に自分のことをしばりつけていく。

そうなると、書く事がすごく怖い。書くことは私の夢につながっているから、遠くの誰かに書いたものを読んでもらえる嬉しさがあるはず。けれど、そのためには自分ではない誰かに気に入られるために、相手をうかがってじぶんを閉じこめなければいけないと思っている私がいる。

怖さを抑え込むために、肩もこわばり、首もすくめて、筋肉は堅くなり吐き気に化ける。そういえば、胃腸炎も異様な緊張や不安から起きているかもねと、以前、心療内科の先生と話をしたことも思い出した。

このひと月ほどのわたしは、緊張してたのか。そして、とにかく怖かったみたい。

早く、多くの人に読んでもらいたかった、認められたかった。誰かに認められて、そこに居てもいいよと言われたかった。師匠に認められて、そのままのわたしでやれるってことに保証が欲しかった。

けれど、今のままのわたしではまだ足りなくて。その足りないわたしを、たくさんの人に見てもらうのが嫌で、夢は語るけれど動かない私でいたかった。

とっても怖がりで。でも怖がっていることは見せたくなくて。
たくさんのことを知識としてとりこんで用意して、自分でないなにかでありたかった。

危うかった。また、誰かに認められたいと思い「過ぎて」しまう自分にはまりこむところだった。自分自身を見失いそうになるところだった。
と、ここまで、無事に思い出せたからブログのお休みも1日ですんでほっとした。

夢にむかっていくときに出てくるのが『世に出ることに対する潜在意識レベルの強烈な怖れについて』。

世に出ること。
夢が叶うこと。

どちらもすごく怖いことですが、その怖れの分だけ、ほんとうにしたいことでもあります。

『世に出ることに対する潜在意識レベルの強烈な怖れについて』 .ココロノオフィスHPより

怖かった分だけ、世に出たいし夢をかなえたい気持ちが強いなら、わたしが「書いていたい」「多くの人に読まれたい」と思う気持ちは激しく強い。

だったら、自分の中で動いている気持ちはそのままに、もう書き続けてみるしかない。

でも、その時に。わたしが気をつけるのは、わたし自身のために書くこと。誰かに喜んでもらえたり、多くの人が読んでくれたりするのは、嬉しいことだけれどおまけでしかない。わたし自身が自由に書くこと。そのことを覚えておく。

そうしておけば、たぶん、認められたいと思い「過ぎ」て自分をきゅうくつにはしないだろう。自由なわたしのままで書き続けられる。自分のことを自分で認めて、ここに居てもいいと思える。そのままのわたしでやれるってことを自分自身で確信をもてる。

わたしは私。ほかの誰でもなく、わたし自身。わたし以外の人は他人。他人は他人。それぞれの人。

わたしと、他人と。それぞれ、別の人、ひとりひとり。

わたしと他人と。きりわけて。ひとつの景色におさまる。

▼ 講座の講師をひきうけるとき。とっても怖かった。

田村 洋子

”気配は答え。気配は本物。
気配を感じて、じぶんを生きる。”
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●魂振=意識の周波数を上げる実践のマニア*瞑想と呼吸実践が日課

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