最高のものを手にするだけの魅力がわたしにはある。ことにしよう

自分にとって都合よすぎるくらいに、モノコトを考えてみよう。図々しいとおもわれるんじゃないかって不安に思うくらいで、きっとちょうどいい。

これまで、自分の気持ちや感じたことを表にすべて出せなかったのだから。自分の自由に制限をかけなければ「普通になれない」「世間にまじれない」と思って、抑え込む癖がついているのだから。

だから、都合がよすぎる。と思うくらいで、きっと、ちょうどいい。

そんな話のなかで、2番目に好きなパソコンを買ったもやっと(後悔?)について書いてみたら。もしかしたら、一番欲しいものを欲しいと言うことに慣れていないのかもしれない、と思い至った。

そうしたら「自分に最高のものを与えることに戸惑ってしまう。一番欲しいものを買うこと自体に慣れてないのかもしれない」と感じるというコメントをもらった。

なぜ、自分に最高のものを与えることを戸惑うのか

もし。自分にとっての最高のものを、自分に与えてしまったら。わたしはどうなってしまうんだろう。

わたしにとっての最高の食べものを与えるとする。けれど、食べものは消えものだ。食べればなくなってしまう。だから、ここでは。消えてしまわない、形に残る最高のものを考えよう。

わたしに、最高のものを与えて、ほんとうにいいんだろうか。

だって、最高のものを与えたら、わたしは何もしなくなる。好き勝手、読んで。ぐだぐだと。動かなくなる。気まぐれで、たまにしか人の話を聞かない。そんな風になる気がする。

……と思って、あれ? おかしいな。これはわたしの平常運転の姿だ。最高のものを与えても与えなくても、わたしは何もしないし、気まぐれに過ごしている。

最高のものを与えられたら、わたしは私の役割を果たさなくなる。そう思っている。

私の役割。それは、おねえちゃんで、妻で、カウンセラーで、書く人で、会社員やめちゃった人で。それらの役割を果たしているから、世界に混ざれると信じている。

だから、自分に最高のものを与えないのは、わたしにとっての罰だ。だから、わたしはこんな風に思っている。

わたしは「最高のもの」を手に入れないので、世界に混ぜてください、ひとりは嫌です。

わたしは最高のものを手に入れず2番目で我慢します、世間の思う役割を果たしますから、どうかわたしを世界に混ぜてください。

おやおや、いつの間に……だから、わたしは一番の「しあわせ」を手に入れるのは怖いのか。二番目の「しあわせ」をうにょうにょといじって、最高のしあわせに変換しようとする。

そのこと、わかったあたりで。とりあえず、おしまい。これ以上、今なんとかできる気がしない。

たとえ、自分で自分を罰しているとしても、その強さは弱まってきている。だって、わたしがごきげんに過ごせている範囲は以前よりもずっと広く、心もかなり落ち着いてきているから。最高のものを手に入れている機会も増えているはずだ。

「最高のものを手に入れてもよい、より幸せになってよい」と、自分自身にもっと納得ができ腑に落ちたなら、よりご機嫌に過ごす機会が増えてくる。

さて。どうやったら納得できるだろう。これも罪悪感のしわざかな。どうしよう。

まだ考えまとまらないから、とりあえず。何かを決めるたびに「最高のものを手に入れるに十分な魅力が私にはあるよ」と言い聞かせることになりそう。

(その十分な魅力は、今のわたしにとっての十分bestな魅力。わたしが理想としている十分bestな魅力ではないことに注意すること!!)

あざやかに、今の魅力を自分で受け取る

▼ 罪悪感は長いおつきあい。根本裕幸師匠のセミナーと本、読み返してうなってます

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