●やめると、はじまる。はじまっていく。
手放す。やめる。
よく聞くフレーズたちなのだけれど、その「やめる。手放す」といった感覚にもっているイメージが気になって仕方のない、今日このころ。
「やめる。手放す」というとき、それはどんな状態になること?
「やめる。手放す」ってどんな感じ?
「やめる」とは、これまでのものを完全に無かったことにするような。きっぱりと、決然と、モノコトから離れるといった印象をもつ方が多いみたい。(わたしも、そうだった)
今、やめられていないから「やめる」。やめようとするから、今の自分に貼りついているものを、べりっと、ひきはがすようなイメージになる。
これは、痛く感じても仕方ないかなって思う。
痛く感じてしまうから、「やめる」ことにためらいが出る。
(だって、痛いのいやじゃない?)
だから、べりっと、ひきはがすような「やめる」イメージを変える。
「やめる」とは、つないでいた手を離すような。
やさしくて、おだやかで、やわらかなイメージ。
そういうことに決めてみる。
やめたいけど、やめてこなかったものを。
今日から、やめるっていうとき。
やめられなかったことを、そっと、手から離してみる感じ。ここで気をつけたいのは、手を離すだけなんだよってこと。
これまで、手をつないでいてくれてありがとう。ここからは、別の方向へ行くよ。(と、手をそっと離す)
「手放す」とは、手離す。これまで握っていた手を、そっと開くってこと。手から、離してみるだけ。
開いた、その手に握っていた何かを、どうにかしてやる!みたいなエネルギーを持たせない。無理に手のひらから引きはがそうとしない。手にのせたままでも、まずはよし。
開いた手の中にあるものへ、風を当てる、光を当てる。
視線を向ける。今、見てる自分が何を思っているかを確認するだけ。
まだ、持っていたいとわかれば、また握ればいい。
「もういいかな」とわかれば、いつの間にか。その場に何かを残して、自分は、するりとその場から離れてゆける。
ゆっくりと、手を離した場所から離れてゆくってことが最終的にできるんだと、自分でわかれば「やめる。手放す」ってことも、たいそうなことになりづらい。「やめる。手放す」を選びやすくなる。
やめたり手放したりした後、「やめた。手放した」状態が続くかは別のおはなし。
だから、その後のことは考えずに、今。「やめる。手放す」ってだけでいい。
そっと、手を離してそこへ置いて、先に向けて歩いていくだけでいい。
もしかしたらこの先で、振り返って。置いてきたものを遠くからながめるかもしれない。
もしかしたら、元来た場所へ戻って、もう一度、近くで手に取りたくなるかもしれない。
もしかしたら、振り返りもせず、あっさりと「やめる」ことができてるかもしれない。
この先は、わからない。
でも、今。
やめた。手放した。
今、そうできた自分が、この先に出会うはずの未来の自分に、
おめでとう。
*
今、わたしがやめたいのは「はじめられない自分」。
はじめようとして、足がすくむ。……この「足がすくむ」感じをやめたい。なのにやめられない。
やめる!と決めてないからなんじゃない?
はじめる!と決めてないからなんじゃない?
自分にあれこれと聞いてみるけど、なかなか決められず。
やめよう。……あ、やっぱりこれは、やりたい。
どうする? ほんとに、はじめられる??
うーん。まだ。できそうな気がしない。
などなど。
それは、まるで絶叫系マシンが苦手なくせに、乗っている人がたのしそうにみえて乗ろうとして、順番が近づいて、はらはらどきどきしてるときのよう。
たのしそうなんだけど、乗るのは怖い。でも、乗ってみたい。……でも怖い。みたいな、無限ループでぐるぐるして、はらはらどきどき。大混乱。
でも、思って見たら、その大混乱は、地球的アトラクションを楽しむための手法のひとつ。
「はらはら、どきどき」「ぐるぐる」
たのしめてるね、やったね!!
さて。そうとわかれば「ぐるぐる」もたのしんだ。「はらはら、どきどき」は「わくわく」に変えられるから、大丈夫。
はじめよう。
(はじめられない自分は、いつの間にか、小さく溶けた)
*
何かをやめて、新しくはじめるとき。その期間は大混乱になる。
例えば、転職や部署異動を想像してみる。その引き付き作業を、同じデスクの上でやっていたとしたら?
前の職場のあれと、新しい職場のこれとが。どれがどれやら、ぐっだぐだに混ざってしまいやすくなる。
日常の中でお片付けが得意ではなく、頭や状況に対してのお片づけも得意ではない自覚のあるわたしなら、なおさら(ぐっだぐだになる)。新しい職場のものなのか、前の職場のものなのか。
新しい職場のだわ、と手に取ったはずのものが違っていることもある。また、その逆もある。ファイルなどひとつずつ、内容を見ながら整理するしかない。
似たことが、環境や心の変わっていく移り変わりの境目の時にも起きている。
だから、ね。焦らずに。一つずつ。ひとつずつ。確認して。
これは、新しいほう。こっちは、前のほう。と仕訳けていきながら「新しい」モノコトだけを手元に残していく。
「前」のモノコトは、ひとつずつ。ありがとう、と手元から離す。……それを繰り返していくうちに、手元には「新しい」モノが残っていく。
そうしたら、ふと。自分で気づくときが来る。
もう、新しいステージの自分になっていたんだ。
もうすでに、新しくはじまっていたのか。と。
そのときには「やめる。手放す」とおもっていたことがいつの間にか、終わってしまっている(自分では、やめたつもりも手放したつもりもなかったとしても。いつの間にか、やめて手放し終えている)
やめると、はじまる。
心理学系セミナーで、そう言われるし、確かにそうだなとわたしも思う。
やめると、はじまるのは、もしかすると。手に取りたい新しいモノが自分でも気づかぬうちにあり、手を開いて。ひとつひとつ、目の前のこれまでのモノと、意外に思うような新しいモノとを選んでるうちに、結果として「はじまる」のかもしれない。
(そんなの、まどろっこしいわ!ってときは、新しいステージにいる自分にふさわしいモノだけを手に取って、あとは「よろしくね」とその場に置いて去る! それくらい強引なやめ方も、面白いかもしれないと思ってる)
また、何かをやめたってときは、はじまったものをみつけてみよう。
「はじまる」ものはなんだろう? はじまったものは何かないだろうかといった目線で、自分のまわりをよく見て探してみる。
そうしたら、確かに。
やめると、はじまる。が、いつの間にか、「やめると、はじまっていた」という実感がわりやすくなる。
◇
そんなかんじの「やめると、はじまる」のおはなし。
それでは、またね
田村洋子でした
(レター読者さんにむけてお届けした、かつてのレターを大幅に書き直した記事です)
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