
予祝(よしゅく)、前祝い。
その単語を思い出すのは、年末と立春前、そして桜が咲く季節。
わたし、予祝っていう概念そのものは、とても好き。
今はまだ現実になってないんだけれども、未来にやってくるはずのものがあるから、それを楽しみにしてる。って感じが、好き。
でも、予祝を嫌いだった時期もありました。
なぜかというと……ちょっと、うさんくさく感じたから。
「ワクワク」って、強制されると冷めてしまう
予祝の説明でよく聞くのが、「既にかなったことにして、喜んでお祝いする」というやり方。
「やったー!」って、かなったときの最高の気分を、今、感じ取って。
かなったものとして、お祝いしてしまう。
そのために、テンション上げて。謎に、うきうきしなきゃいけない気がしてた。
もちろん、それのたのしさとしては、わかる。
そのやり方が合う人も、合うときもある。
でも、わたしには、どうにも“無理やり”に感じてしまってた。
「ワクワクしていれば、願いはかなう。だから、前祝いをしてみよう」
そう聞くたびに、どこか心がスッと引いてしまうような、冷めるような感覚がありました。
※もし、「そもそも願いって、よくわからない」と感じている方は。よかったら、こちらの記事から読んでみてくださいね。
>> 願いがわからないとき、どうすればいい?
たしかに、ワクワクしているときって、エネルギーは動いてるし、流れにも乗りやすくなる。
でも、「ワクワク」って、「今から、ワクワクするぞ!」と意識して作るものじゃないんですよね。
ワクワクは、気づいたら勝手に湧いてくるもの。
内側からふわっと湧き起こるものだからこそ、自然に乗れる。
わたしが苦手だったのは、「さあ、盛り上がって!」と外から強く、そのワクワクを強制、誘導されることでした。

ジャンプする予祝と、わたしにとっての予祝
ワクワクを強く感じながら未来を思い描いて、喜ぶ。
そういう予祝は、言うならば「ジャンプする」ようなスタイル。
今、ここにいる状態からぴょーんと飛び出して、望む未来に気持ちを飛ばしていくような。
軽やかで勢いのある動き。
でも、わたしにとっての予祝は、そのジャンプではなかったんです。(それに気づいたら、ふっと楽になった)
「ゆったりと思い描くこと」それが、わたしの予祝
予祝という言葉に違和感を持ちながらも、完全に嫌いにはなれなかったのは、その本質に、どこかで触れていた気がするからだと思います。
予祝の考え方、そのものには自分の感覚として「信じられるもの」があった。
わたしにとっての予祝は「未来をつかみにいく」ものではありません。
未来を想像して、にんまりと笑うようなもの。
あるいは、祈りのように。深く呼吸をするようなもの。
予祝とは、「自然と、そうなっていた気がすると予感する。思い出すように感じられる」。
そんなふうに、未来の気配を受け取っていくものです。
(向こうから、いつの間にか、やってきてる。そんな感じ)
たとえば、春に桜を見上げながら、
「来年もこうして、だれかと笑って見上げていたいな」と、ふとまだ見ぬ次の春を思うような瞬間。
まだ来ていない未来なのに、なぜかその光景の気配が、今、すぐそばにあるような感覚がする。
あるいは。
今は、日々の仕事に追われて余裕がないように感じているとしても、
「いつか、もっと人と丁寧に関わって、自分の感性を活かせるような働き方ができたらいいな」
「お金のためだけじゃなくて、“わたしが生きている”って感じられるようなライフワークをしていたい」
そう願う気持ちが、ふと浮かぶなら、それもまた、未来の気配のひとつ。
脳は、わたしたちが気づくよりも早く、常に未来を予測しているそうです。
実際に見えている世界も、その「予測」の積み重ねでできているという話もある。
だとしたら、ふと浮かぶ「こうなったらいいな」という感覚も。
もしかすると、すでに身体のどこかが、その未来を先に感じとっているサインかもしれない。
そう思うと「未来の気配を感じる」ことは、特別なことではなくて。
「こうありたい」とふと浮かぶ在り方は、身体が先に、そんな未来をキャッチしている証のようなもの。
わたしにとっての予祝は、そうやって未来と今とのあいだがつながるような感じ。未来にある空気を、先に吸ってみるような、そんな呼吸のような時間。
すでにある気配を、ただ静かに、ゆったりと感じている。
それが、わたしにとっての予祝なのだと思っています。
“願い”ではなく、“こんなふうに過ごしていたい”という在り方
わたしが自然にできた予祝は、「これが欲しい」「この結果がほしい」「かなってほしい」というものではなくて、「どんな時間を生きていたいか」だったんです。だから、テンション上げての前祝いに違和感があった。
「願い」というより、自分自身の「在り方のイメージ」。
劇的なワクワクじゃなく、静けさのある”たのしい気配”。
軽い感じで、無理してなくて、揺れるものもそのままな、自分のかたち。
そのイメージとは、
朝の光を感じながら、お気に入りの器でお茶を淹れてる。
夕方、誰かに向けて「大丈夫、いい感じ」とメールを書いている。
そんな日々の風景が、ふと浮かぶ。
しかも、ちゃんとことばにしなくてもよくて。
ただ、ぼんやりと浮かぶ感覚。気配。あたたかさ。
それをそっと、胸の内に置いておくだけでも、じゅうぶん。未来を感じ取れてる。
そんなふうに“ありたい”と思う、その感覚。未来の予兆というか、気配なんです。
ことばにしなくても、なんとなく浮かぶ風景や、身体に残るぬくもりのような。
ことばになる手前の、あの気配。
そういう“感じられる未来”を、そっと自分の中に置いておくこと。
それが、わたしにとっての予祝。

「深呼吸」のように、未来を迎えにいく
無理に気分を盛り上げなくても大丈夫。
目を閉じて、ふーっと深呼吸するように。
未来の気配に、そっと身をゆだねてみる。
ほんの少し先にある、まだ見ぬ未来を、今ここで感じてみるだけでも、もう予祝であり、祈りになっている。
そうやって育っていく未来は、たぶん。自分の“天命”のようなものにつながっているんだと思います。
「具体的な願い」がなくても、予祝はできる
未来を描こうとしたとき。願いがうまく言葉にならないときって、ありますよね。
でも、だからといって「わたしには願いがないのかも(だから、予祝なんてできない)」なんて思わなくて大丈夫。
感じている“望ましさ、好ましさ”は、きっと、ある。
今、ことばにならなくても、感覚の中にちゃんとある。
それをやさしく抱きしめていけたら、それだけで、もう十分なんです。
(でも、その感覚をことばにできたなら。そばにいる誰かと分かち合えるし共鳴できるから、ことばにしようとすることを、わたしはあきらめたくないと思う)
予祝のかたちは、ひとつじゃない
無理してテンションを上げて、「かなったことにして喜ぶ」だけが予祝じゃない。
静かに深呼吸しながら、ふと浮かんだ未来の気配に、そっと意識を向けてみる。
それは、かすかな祈りのような時間。
無理なく。すっと自然体のままで、未来を今、感じ取ってみる。
そんな予祝のかたちも、きっとあるのだと思います。
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それでは、またね
田村洋子でした

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