イラッとは、自分自身のもつ価値観のめじるし

自分自身の内側にかつてあった多くの傷たちは、だいぶんと薄れてきた。だからなのか、目の前に見えるモノコト、現実に起きる出来事のなかに、イライラと小さな怒りのようなものが持続するモノコトも現実も減ってきて、いいペースでごきげんな時間があり、日々の平穏無事が続きやすくなっている。

イラッと来る瞬間が、空っぽになくなりはしていない。でも「イラッ」は意識の表に浮かぶ、その直前にほどけて、別の理解に変わるから、不思議なくらい、平穏で平和な心地になって来た。

だから、もう大丈夫だと安心していたら、久しぶりにイラッとする場面に出会った。

イラッとした自分のことを残念に思ったり。
やり過ぎ注意で、周りも意識しつつやっていく分にはいいかなと思ったり。
イラッとするくらい、このこと大事にしてたんだなと思ったり。

びくんっ!と感情がはねたのをセンサー代わりにして、またひとつ、自分のことを知っていく。

そう思うと「イラッ」とは、自分自身のもつ価値観のめじるしになる。イラッとのめじるしをもとに、自分の大切にしたい気持ちやルールのことを知っていく。

自分の持つ気持ちやルールを知ってから、改めて今、選び直す。

他人を見て「あれ、嫌だな」と思うことは、自分自身が「自分に禁止している」ことだ。

「知っているから」とはなしをさえぎって、ひとりごとをいわない。
相づちがわりに「すごいですね」と応えない。

このどちらも、わたしが自分に、そうさせたくないと思って禁止して来たことだ。

だから、ついつい他人にも、同じようにしてほしくなる。
でも、他人がそうするかどうかは、その人次第。自分がどうこうして、変えてしまうことではない。

他にも、あると思う。例えば。

有給休暇を使ってなんでもない日に休みを取る人を見て、イラッとするなら。
自分ももしかしたら、なんでもない日に休みを取りたかったのかな?ということかもしれない。

帳簿をつけたあとの書類が、でこぼことそろっていないのを見て、イラッとするなら。
自分はまっすぐに整った書類のとじ方が好きなのかな?ということかもしれない。

そうして、自分の好みを「嫌」をとおして知っていく。

イラッとするからと言って、全てを癒しきる必要はない。癒しきらないと成長できないわけでもない。傷があったとしても、それはそれで、その人の味になっていく。

それぞれの赤

いつもいつも、自分が何を嫌がっているのか?に意識を向けると、今の自分が意識しているモノコトが「嫌なこと」で埋まってしまうから。

たまに、感情センサーが「イラッ」と動いた時にだけ。
自分は何を嫌がっているのかな?
何を自分に禁止していたから、このイラッとが出てきたんだろう?

じっと、みつめてみたら、自分自身のもつ価値観(気持ちや自分ルール、ビリーフ、概念)をみつけられる。

そして、今、改めて選び直せば、
自分が、またひとつ、身軽になれる。……そんな気がしている。

フラットな自分の目線から、来年を「振り返って」これからの自分を知る時間です

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田村 洋子

”気配は答え。気配は本物。
気配を感じて、じぶんを生きる。”
*自分の才能や可能性を最大限に発揮するためのプログラム提供
●魂振=意識の周波数を上げる実践のマニア*瞑想と呼吸実践が日課

活動理念:
●見えないものを見える形に ◆笑顔ではなうた、おいしいごはん #じぶんを生きる 自然に生きる

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