ふと読んだ記事に心が落ち着かない。ざわざわしている。その、ざわざわ落ち着かない感じをたどっていくと、「言葉をえらべない私」を嫌っているわたしがいた。
わたしは、言葉が好きだ。人の内側にあって見ることのできない心や感情も、言葉になれば外に出てくる。言葉は文字になる。見えなかったものが、見える形になり情報が増える。もとに見えていた色や温度に、言葉の情報が足され、立体のように浮かび上がる。それが、美しく感じられ、いとおしい。
美しく、いとおしい言葉。だから、言葉を選ぶ。見えない形をそのままに、言葉としてあらわし。似た言葉の中で、より相手との関係の中で使うにふさわしい、ぴったりする表現を探す。ものすごい早さで、頭にある言葉のひきだしをかきまわし、言葉を見つけてくる。
けれど、いきなり、がばっと。衝動的に。思ったままを掘り当てた言葉が、口からもれてしまうことがある。まだ、相手に聞かせていい言葉に整えられていないのに、口からあふれる。
そのことを、わたしは嫌っている。言葉を選べるはずなのに、口からこぼれた言葉に後悔する。
「後悔しなくてすむように、気をつければいいのに」と言われることも多い。自分もそう思っている。
だから、かなり厳重に言葉をながめているのだけれど、その目をすりぬけて、いきなり言葉が口に出る。
それは、頭の処理能力があふれている時に多い。
人と人とが話をするとき。じつは、多くのことが自動的に処理されて、話をすることができている。
複数の人が話している場所では、話し相手の声だけを拾い上げ。
相手の話している内容を理解し。
相手の表情や声のようすをよみとり。
自分の考えを言葉に変える。
言葉が相手に届きやすいよう、色合いや速さに気をつけて口に出す。
ざっと、これだけのことが、自動的に処理されている。
ところが。頭の処理能力があふれている時は、いくつかの工程が手動処理になる。頭のエネルギーほとんどが、そちらへ持って行かれる。
(そして、この状態。うつ等の精神的な病や自律神経失調症がはじまりかけたとき、起こりやすくなるようにわたしは感じている)
話し相手の声だけを拾い上げられない。だから、相手の話している内容を理解しようとすることにエネルギーがかかり過ぎる。そうなると、もう。おしまい。脳と口が直結されたようになって、言葉がぼろぼろと漏れてくる。
言葉が漏れると、相手に伝えるための言葉を選ぶ余地はない。思いついたままに、ざらざらでてくる。コミュニケーションのための言葉にはなれない。
そんなわたしのことが、わたしはとても嫌いだ。落ち込みもする。
調子が良ければいいのに。頭の処理能力さえ、落ち着いていればいいのに。……どうして、わたしは言葉を選べないんだろう。
わたしが自分を責めている分だけ、他の人にも責められているように感じてしまう。
他の人が自分を直接に責めているわけではない。ただ、わたしが「責められている」と感じているだけ。そして、責められていると感じることは、仕方がない。だって、自分が自分を責めているのだから。
だったら、せめて。自分で自分の味方になろう?
心が落ち着かなくなるときは、自分が嫌っていた自分自身と向き合うチャンス。
落ち着いて言葉を選ぶため、できるだけ頭の調子に心くばっている。だから、わたしは無罪だ。
調子や具合の良い時のわたしができるのに、調子や具合の悪いときのわたしはできない。なんで、わたしはできないんだろう。そう責めなくていい。今のわたしにできる最善を尽くした、それは間違いない。
たまに、その制御に失敗して言葉が漏れることがあるけれど。それも、わたしなのだから仕方がない。
仕方がないとあきらめる部分と。それでも、あきらめずに頑張っている部分と。
どちらもあるから、それでいい。……わかって、すっきり。はればれ。自分と仲直り。
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