友人や仲間を好きすぎるから。用心深く、人嫌いのふりをする

「友人」とは、どの状態の人間関係なの?
自分のなかで腑に落ちたこたえを持たないのに、うっかり「友人」と言ってしまった。

今、わたしは口から心臓がはみ出してきそうな、緊張につかまっています。

じぶんが「友人」だと感じれば友人でいいんだよ。

そういってくれる人もいたけれど、どうしても「友人」がよくわからない。
 そういえば、「仲間」もよくわからない。

—–

友人や仲間がいることはある。

でも、「友人なの?!」と相手からきかれると、もう、よくわからない。

「友人」や「仲間」に求めてしまうものが、とても大きい。適切な距離が、どうもわからない。
「友人」や「仲間」だと思ってしまうと、一気に距離がゼロに近づき、いつものじぶんの行動からかけ離れてしまう。

だからなのか、友人や仲間になると、確実に私は排除される。仲間たちの場に溶け込むことはできないという、妙な自信がある。
それだから、友人や仲間を思うと、ぐだぐだの、でろでろになってしまう。どうしていいのか、わからなくなる。

気をつけてぐだぐだを制御しておかないと、べっとりと。気色の悪い態度を友人たちにとってしまうような気がする。

それだったら、「人ぎらい」ということでいいか。多めに離れておけばいいのだから。そうしておけば、傷つかずにすむはずだ。

だから、友人や仲間だと思っているとわかったとき。じぶんから人との距離をとるようにしてきた。

でも、少しさびしい。悲しくもなる。
悲しいじぶん、さびしい自分は、いてはいけない。

そうしたら、頭(思考)の中で確信がうまれた。
人と距離をとらないと、友人や仲間は離れていく、いなくなる。という確信。

確信(思い込み、ビリーフ、ルール、謎ルール)の分析法を、最近改めて試してみている。
だから「友人や仲間は離れていく、いなくなる」のは、絶対におこることなのか。じぶんに問い直してみた。

みんながみんな、友人だと思ったら離れていくの???
そのことは、決まり切ったことなの? 本当に、本当??

そう、自分に確認してみたら、離れていかない友人もあるし、続いてる仲間もある。
友人だと相思相愛(?)で思っていてくれる人を何人か思い出せた。よかった。ほっとした。
(ほっとした。ということは、わたしは友人や仲間と過ごしたかったのか。)

仲良くなれた人、みんながいなくなるわけではないのか。
だったら、友人や仲間は「絶対に」離れていく、いなくなる」わけではない。

友人や仲間だとじぶんが思うこと、あえてやめたり。
こころの距離が近づいていくからといって、離れなくてもいいのか。

—–

それでも、じぶんが興に乗って動いているとき、衝動性全開になってしまうとき(愛着が変に発動しているとき)には、 気をつけて人との距離を測る。 そして、距離を微調整することが必要になる。

人それぞれが必要とする、適度な距離(パーソナルスペース)の内へ知らず踏み込んでしまうから、

わたしだって、日常は。多めの距離を人ととっている。過敏さを発揮してるから、 多めに離れないとこころが落ち着かない。多めの距離をとっておくほうが、気もちフラットなまま自然に相手と向き合いやすい。

それなのに、衝動性が表にあふれてしまうと、距離がいきなりゼロに近づく。日常よりかなり多めに何かが出てきて、距離感が分からなくなってくる。

多めの距離をとっていたわたしと友人づきあいをしているひとは、わたしと多めの距離のまま向き合おうとする。それなのに、突然、その距離をゼロに縮められたら……それは、怖いだろう。

「突き」を禁じているはずの剣道の試合で、いきなり相手が「突き」を放ってくるくらい、驚くはずだ。

相手を突然おどろかさないように。時と場合に応じた距離を見つける。試合のルールは守る。突然のルール変更はしない。

平常運転のじぶんはできるかもしれないけれど、愛着が暴走するわたしには適切な距離を保ち続けることがなかなか難しい。

愛着が暴走しても、乗りこなせるようになれば。
「友人」や「仲間」のことを、もっと、フラットに。するりと受け入れられる。

自分は、人が好きすぎて苦しいのか。距離を縮めたいと思っているから苦しいのか。
そのことが、ようやくわかりはじめたのだから。

▼「人が好きだ」としみじみ

人がいてくれたから、じぶんが自分とつながれる
「いいな、うらやましいな」を感じないように。もっともらしい理由をこれまで持ってきた。一生懸命に取り組んでみて、それなのに。どうすることもできない、と思いたくなくて。「興味はあまり... 

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