今日3月10日は、七十二候で「桃始笑(もも はじめて さく)」のはじまり。このあと、10日ほどで春分となる。
季節の移り変わりを表す二十四節季は、「春分」のように漢字2文字であらわされて、ぱりっと気持ちいいけれど。その二十四節季をさらに5日間ほどの候に分ける七十二候の言葉もなかなかに麗しい。
二十四節季も七十二候も、古い時代の中国から日本に渡って来た。季節を漢字数文字で表しているのだけれど、中国での季節の移り変わりを表していたらしい。
江戸時代ころになり、日本の気候に合わせて言葉を決めるときに、あてられてある言葉がなんとも。和歌のようで言葉のさわりも美しく、とても好きだ。
もも はじめて さく。
なんだか、ぽろんぽろんと粒になって花が咲くみたい。春が来たなあとのんびり、あくびをしていそう。
*
花が咲くときに。
「ほら、今、咲くぞ」「これから咲くぞ」「なんとしてでも咲くぞ」
みたいな。
力いっぱい、気合を入れて咲いている様子はない。
周りの気温、光の当たり具合、朝晩の気温差などなど、周りの環境に刺激を受け。
時が来たら、ぽろっと咲く。
人の笑顔も、花が咲くのと同じ感じかもしれない。
無理やりに笑おうと顔を作る感じではなく、自然と笑っている。のんびりと。
自分の身の回りにあるモノコトや、周りの人たちの会話から、自分の内側がなにかしら刺激を受けて、ぽろっと笑顔がこぼれる。
そうだとしたら、
自分の笑顔を増やすために
周りに何があるといいだろう。何を無くせばいいだろう。
誰の顔が見たいだろう(誰と一緒に居たいだろう)。
誰と話がしたいだろう(誰の声が聴きたいだろう)。
笑顔を増やすために思いついたモノコトを、選りすぐるようにして身の回りにおいてゆけば、いつのまにか「花が笑う」ように。
自分の内側から、命のひかりが満ちて、こぼれるように「笑顔」で過ごしているだろう。
と、考えていたのでありました。
桃始笑。
もも、はじめて さく。
笑う。と書いて「さく(咲く)」と読むのは不思議だけれど、花が開くことを「花が笑う(花が笑む)」というのは、ちょっとだけわかるような気もする。
ふわっと、ほどけるように花は咲くから。
花が咲いて、やわらかな空気がこぼれる様子は、人がふわっとほほ笑むのに似ている気がする。
春の季語に「山笑う」という言葉がある。
冬のしんと静かな山が、春になり命がこそこそ動き始まっている頃。山のなかに、木の花がぽろぽろと咲いて、木の新芽がちょっこり顔を出す。生きている感じが山の中に満ちてきて、花や緑が光って感じられるような頃を、山笑うと表現したらしい。
人が笑うのも、ほほ笑むのも、人の命がこそこそとうごめいて、生きている感じが満ちあふれて、外へと見えた形。やわらかな空気がこぼれてきたようすを見せているように、わたしは感じている。
*ここまでのことが、よーこサウンドではなしてみた内容。
ブログに何を書こうかなと考えている時、メモ代わりに音声録音しているのだけれど、今回はその録音をstand.fm (スタンドエフエム) でやってみたので置いておく。
*
そしてその後で「笑う」が「咲く」と読むことを調べてみたら、面白いことを知った。
「笑」は、口編がもともとは左についており、その「笑」の略字が「咲」だったらしい。
もともと「わらう」という意味の漢字だった「*」が「咲」と「笑」に分かれ、その両方が使われていました。ところが、いつしか「花がさく」ことを人のほほえみにたとえて「花咲(え)む」としゃれて表現されるようになりました。そして次第に「えむ」という意味を持つ「咲」が「さく」という意味に入れ替わって使われるようになり、定着していきます。そして今のように、「咲」が「さく」、「笑」が「わらう」という意味で使い分けられるようになったのです。
※「*」は「八+天」を上下にあわせたような字
漢字コラム5 春。花は咲き、山は笑う.kanjicafe(漢字カフェ)より
そういえば、思い出した。以前、古事記の音読会というか朗読劇に参加して、天岩戸を読んだとき。
「八百萬の神共に咲ひき」と書かれてあり、音読を止めてしまったことを思い出す(本番中に!冷や汗をかいた)。
「咲」も「笑」も。「わらう」と読むようです。
開いた口から、息がふわっと分かれて出て来るようすが文字になって、わらう:「笑」「咲」になった。
わたしも。ふふっと息こぼれるように、笑って居よう。
***
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