「普通」にあこがれるけれど、じぶんの「普通」を生きることがここちよい

「普通」でいること、これがなかなか難しい。

「普通」は、世間の中での常識のなかで生きること。
周りの大多数がもっている考え方や行動の様式から、大きく外れることがないこと。
そう思ってきた。

世間や一般の常識といわれるものを考えていくと、その中ではやっていけない自分がいた。
だから、わたしは「普通」でいることにあこがれて、「普通」であることの様式をいくつも探した。
その様式に合わせて、わたしを変形させていくうちに、じぶんの形がわからなくなった。

じぶんの形がわからなくなるほど、「普通」の様式をとりいれてきたのに「普通」にはなれない。
ますます苦しくなった。日常を過ごすことができなくなった。

けれど、「世間のすべては常識や普通で動いている」というのは思い込みだと知った。

カウンセリングを勉強しようと飛び込んだ心理学のスクールで、わたしがずっと判断の基準にしてきた「普通」の様式からはずれて生きる人たちを何人もみることになった。その人、それぞれが持つ何パターンもの生き方、考え方をそのままに、とても自由に生きているように見えた。
自由に生きているとわたしが感じた人たちは、 自分も世間も。それぞれを尊重しながら生きていた。
「世間のルールは世間のルール。じぶんのルールは自分のルール」だと知っていた。

別に、わたしが「普通」になろうとしなくていいのか。
わたしは、わたしのままで普通なんだ。
他の人のもってる「普通」は、それはそれとして。わかっておけばそれでいいのか。

でも、それは他の人の「普通」をわたしの普通にあわせてもらうこととも違う。

じぶんにとっての普通は、ほかの人にとっての「普通」だとは言い切れず。
世間やほかの人にとっての「普通」は、じぶんにとっての普通だとも言い切れない。
お互いが持っている「普通」や常識の考え方を、それぞれに認めあい、それぞれがここちよい距離を探して落ち着いていく。

どちらか一方の「普通」にあわせる必要はなくて、それぞれの人が持っている「普通」を認める。

どこまではよりそえるけれど、ここからは難しい。とか
やり方を変えて、試していくうちに。
それぞれが落ち着く位置におちつく。

そうすると、お互いがここちよく過ごすため、「普通」の感覚があわない人とは距離ができてくる。
「普通」の感覚が近い人どうしが寄り集まってくる。

ここちよく過ごせているなら、周りの人とほどよい距離の中で過ごせているということ。
そして、「普通」はどういうものなのか。どうやって取り込もうか。悩む機会も減ってくる。

他のひとの「普通」が気になるのは、じぶんの居心地が悪くなってきているとき。

じぶんの居心地が悪いと感じるのは、じぶんの魂やこころの奥に嘘をついているとき。
これまで、常識に沿うようにじぶんを変化させてようとしてきた癖が自動発動して、魂たちから離れた行動をとってるとき。

じぶんを責める癖が発動したり、自己嫌悪がとっても強くなってきているときにも、世間の「普通」や常識を気にしてしまう。

「ああ、今。わたしは「普通」や常識を気にしていたんだな」

また。我にかえる。
……その繰り返しで、じぶんの「普通」、自分軸で生きることがとぎすまされていく。

10年近く、繰り返して。
ようやく、じぶんの普通を取り戻しつつある。これが自分軸で生きるということなのかな。

「普通」のこと、常識の範囲。
そのことが気にならない時もある。まったく、意識の表面にすら「普通ってなんだろう?」とは浮かばない。

その時間は、じぶんの普通の中で生きているとき。

今、わたしはじぶんの「普通」を生きている。そんなときが増えてきた。

たまに(しょっちゅう?)、じぶんのことが嫌になったり、いごこち悪く感じてしんどくなったりする。
でも、そのときは。じぶんの「普通」をみつけなおすチャンス。

我に返るように、あらためて。
じぶんの普通を思い出せばいい。

自動操縦でじぶんの普通を生きるまでは、気づくたびにじぶんにとっての普通を選びなおす。
その繰り返しで、じぶんの普通を生きられるようになる。

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