他人基準のうごきかたから、自分を取り戻す

無自覚のままに、ふと。
まわりを基準にした受け止め方やふるまいをしていることに気づいたら、「わたし」にあらためて問いかける。

わたしは、どう受け止めた?
わたしは、何を感じた?
わたしは、どうしたい?
「わたし」に問いかけて、自分のかんじていることを手元に取り戻す。

友人の投稿を見ていたときに、ふと気づいた

この投稿に「いいね」と反応したほうがいいのかな?
でも、そうすると。あっちのコミュニティではりあってるみたいに見られてめんどくさくない?

……と思ってた瞬間に、ふと、気づいた。

あれれ?
これ、わたしの反応じゃないわ。
周りに合わせようとして、おかしくなってる。

わたしが思っていたこと

友人は人気者だ。
そして、わたしはそのコミュニティではぐれものだと感じてる。
(はぐれものだと決めてしまうあたり、心理的なワナにひかかってる感があるのだが、それはまた別の機会に)

はぐれもののわたしが「いいね」と反応したら、友人の人気のなかを利用しているように感じられてしまうかもしれない。コミュニティで張り合っているようにみられてしまうかもしれない。
わたしの本意ではないのに、友人を利用しているように見られるのは嫌だ。

と思っていたことに気づいた。

「わたし」が感じたのは、友人がSNSに投稿していた写真がとてもきれいだ、ということ。
そして、それほどにもきれいな風景をのせてくれた友人に、ありがとう。と思った、こと。
それを伝える手段として「いいね」と反応しようとした。

それなのに、いつのまにか「反応したほうがいいのかな?」と余分な感じがついてきた。

その、余分な感じ。いらないよね?

仲間の中でどうみられたいか、コントロールしようとする自分がいた

ある程度、距離が離れた人の投稿なら。
ただ、感じたままにコメントするから、ひきずらない。

でも、仲間内での投稿に、もやっとひきずるものが出る。
もやっとするのは、余計なことを気にしてしまうから。

このやり方で仲間うちでのわたしの立ち位置は大丈夫かな。
この場所なくしてしまわないかな。
不安をふりはらうために、おおげさな反応を見せるのは嫌だな。
これくらいの反応なら、まだ仲間の中でのわたしの見え方だいじょうぶかな。……そんな風に。

はじめは、仲間の投稿に感じたことを伝えたくて動こうとしていた。それなのに、いつのまにか。
自分の見られ方のほうが気になってきて「伝えたい」思いが、おかしくなっていく。

勢いのままに、反応を相手に返せたものは大丈夫。
もやっとするな、と内側にわいてくる反応にこだわりすぎる、その前に返せたものは大丈夫。
仲間の投稿に感じたことをそのままに、相手に向けて伝えることができている(と思いたい)。

でも、何か。もやんと浮かんできた段階では、もう、自分の見られ方のほうを気にしている。
そうなってくると、ことばは数を重ねるほどにうそくさくなっていく。

もやん。としたら、じぶんが何してたか。立ち止まって見る。

もやっとなる。
それは、こころの奥底が「やろうとしてることが、こころの感じたことと食い違ってますよ」とはなしかけてきているとき。

だから、無自覚のままに、手放したじぶんを手元に取り戻すために立ち止まる。
そして、じぶんの感じているものを、あらためて見る。

そして、じぶんとこころの感覚とでおはなしをする。 「わたし」に問いかけて、自分のかんじていることを手元に取り戻す。

わたしは、どう受け止めた?
わたしは、何を感じた?
わたしは、どうしたい?

問いかけながら、じぶんの内の感覚をみつめると、じぶんのままに過ごすことを選ぶことができる。

それでは、またね
田村洋子でした

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田村 洋子

”気配は答え。気配は本物。
気配を感じて、じぶんを生きる。”
*自分の才能や可能性を最大限に発揮するためのプログラム提供
●魂振=意識の周波数を上げる実践のマニア*瞑想と呼吸実践が日課

活動理念:
●見えないものを見える形に ◆笑顔ではなうた、おいしいごはん #じぶんを生きる 自然に生きる

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