
バレンタインデーを前に、ふと「愛」を思います。けれども「愛」って、なかなかつかみづらい感覚。
「愛している」と口にした瞬間、むしろ照れくさくなってしまう。その愛を説明しようとすればするほど、本質から遠ざかっていくような気にもなる。
それは、日本語を使うわたしたちの感性なのかもしれません。
「愛」ということばは、どこか大きすぎて、重すぎて、そぐわない。
わたしたちの身体は、確かな記憶を持っています。
あなたの身体は覚えているはずです。
ある瞬間に感じた、あの不思議な温かさを。
きりっと寒い朝、感じる冬の気配のように、明確に。
そして、誰かの後ろ姿に感じるあたたかさのように、やわらかに。
その感覚は、ふと訪れます。
「ありがとう」ということばが自然に浮かんでくる瞬間。
大切な人の何気ない表情に触れた時。
そんな時、わたしたちの身体は、静かに、でも確かに反応しています。
思わずこぼれる微笑み。ふっと抜ける息。深くなる呼吸。そっと胸が鳴るような感覚。
これらの感覚は、実は「愛」という名の気配なのかもしれません。
それなのに、ことばにしようとすると、不思議なことが起こります。あれほど確かだった感覚が、途端にぼんやりとしてしまう。あたたかな気持ちが「ことば」になった途端に、なんだか小さくなってしまう。
それでも、その「愛」の感覚自体は、確かにわたしたちの中に息づいている。
風のように。空気の揺れのように。かすかな匂いのように。
思い出してみてください。
あのあたたかな気配を感じた瞬間を。
それは、おそらくことばを必要としませんでした。伝わってくるものがあった。そう、まるで空気が動くように。
しかし、だからといって「ことば」を探すことをあきらめてしまってはいけない、とわたしは思います。
むしろ、「ことば」を探す旅は、大切な試みです。自分の中にある、まだ見えてきていない感覚に形を与えようとして、思いをぎゅっと集めてくる。
だから表現しようとする過程で、自分の気持ちが見えてくる。より深く、自分の感覚と向き合える可能性が開かれる。
「ことば」にしようと努力することで、はじめて気づくことがあります。
それは、自分の中にある「愛」のかたち。その向かう先。あたたかさの質。
それは、まるで暗闇の中で、そっと手を伸ばすように。
最初は何も見えないけれど、少しずつ、確かな形が浮かび上がってくる。自分の中にある感覚が、よりくっきりと明らかになっていく。
「ことば」は、時として不完全で、もどかしい。
でも、その不完全さこそが、わたしたちに気づきを与えてくれる。
完璧に表現できないからこそ、より丁寧に、より細やかに。
自分の感じている気配を、深く知ろうとできる。
身体で知っている「愛」は、すでにそこにあります。それは説明を必要としない確かさを持っています。けれど、その感覚を「ことば」にしようとすることもまた、大切なこと。
気配として届く「愛」を感じながら、それを表現しようとする。
感じて、表そうとして、また感じて。その繰り返しの中に、わたしたちの感性は深まっていく。
それは、まるで呼吸のように自然な営み。
そうしてつむがれる「ことば」は、きっと誰かの心に、そっと寄り添うことができるはず。
(たとえそれが完璧でなくても)
だから、まずは。
あなたの感じた、その「愛」をことばにするところからはじめてみませんか。
誰かに伝えることが、恥ずかしかったり難しかったりするならば、ノートに書き留めるだけでも。
「この人の笑顔に出会えてよかった」
「あの人の仕草が愛おしい」
「この場所で、この人と一緒にいられることが嬉しい」
そんな小さな発見を、そっとことばにしてみる。
「愛」というと大げさに感じるかもしれません。
だから、日々の何気ない瞬間から、どうぞ。
朝の挨拶で交わされる温かな眼差し。帰り道で感じる誰かの気遣い。夕暮れ時に届く、やさしいことば。それらはみな、確かな「愛」の形なのです。
そうして実感した「愛」は、これまでよりも深くあなたの心に根付いていきます。まるで、小さな種から芽が出るように。静かに、でも確かに。
あなたの中にある「愛」は、すでにそこにあります。ただ、気づいていないだけかもしれません。「愛」の気配を、そっとすくいあげてみませんか。