ヒトとしての愛と動物的な感覚と。(好きと愛のはなし)

たったひとりの女でさえ、注釈なしには愛せなかった。

原文も言葉このままだったのか、何で読んだのかも覚えていないのに、ずっと、この言葉が目の奥にぼんやりと残っている。そして「パートナー」について考えるたびに、ふと、目の前に思い出される。

そして、わたしは考える。

人は、注釈なしに愛することができるのだろうか。
同じ人に対して愛を選択しつづけるなら、注釈は増え続けるのではないだろうか。

好き。

それは、ただ「好き」で、理由なんてない。動物的に理解される感覚。身体の奥にふわりと現れる温度だったり、いつの間にか出てきた存在感だったりする。

けれど、好きの理由を伝えたくて、言葉にしようと考える。「好き」を説明するために、言葉をあとからひねり出す。

そうなると、元あった「好き」には、たくさんの説明がつくようになる。でも、元あったはずの動物的な温度や感覚は薄れる。

愛する。

それは、全ての底で薄く広がって在る感覚。あまりにも、普遍的に存在しすぎていて、意識を向けることがない、根本なもの。

だから、いつも意識をして「愛する」と選択していかないと、愛は続かない。そんな気がする。

好きの種類も、愛の種類も。色合いを変えてたくさん存在している。だから、油断するとたくさんの好きと愛が同時進行する。

人間関係を平和に保つ工夫として、男女の愛は1対1に決められた。だから、1対1を守ることを望まれる。

でも、動物的で原始的な愛の感覚は、1対1におさまらない。

例えば、鳥の世界でいうならオシドリ。仲の良い夫婦の例えにつかわれるけれど、オシドリは決まった相手と、ずっと夫婦を続けるわけではない。繁殖の季節を終えると、いったん夫婦を解消する。そして、また次の繁殖の季節にあらためて夫婦になる。その相手は、前の季節の相手と違うことも多いという。

そういえば、鳥の繁殖調査をしていたころ。繁殖シーズンにペア(鳥の夫婦)をみつけたら、羽の形や色の具合を前年に撮った写真で見比べて、前年と同じペアになっているかしつこく確認をとっていた。それくらい、毎年同じペアであることは難しい。

それなのに、ヒトは。結婚という契約があるからか、同じペア(夫婦)で添い遂げようと頑張る。

注釈をつけて、それでも愛せるのであれば。
「注釈なしには愛せなかった」と言った人物は、誠実な人だとわたしは感じる。

自分のペアを愛するために、あれこれと理由を探している、わたしは誠実でいられるのだろうか。動物的な感覚を脇において、ヒトであろうと頑張っている感じがしてならない。

文章を書いたり調べものをしている仕事の合間に、「パートナー」や「結婚」、「愛」のことを考えていた、今日。

外は、ずっと雨が降っていた。

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田村 洋子

”気配は答え。気配は本物。
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