墨で書く古代文字、そのワークショップ(古代文字を楽しく深くアートする虎舟塾)に参加してきた。三度目の参加になるけれど、 その日に書く漢字は毎回、変わる。毎回はじめての字を書くことになる。
ワークショップのはじまりは、文字についての成り立ちを先生から説明を受けるところから。今回の文字「剛」は、鉄をながしこみ、冷めた型枠を道具で剥がしているところを示す形だという。そういわれると、そんな気がするのが漢字の面白いところ。
そして、先生から順番にひとり1枚ずつ、順番に。大きな紙に大きく字を書いていく。大きな字は、その日、たった1枚。一発勝負。
一発勝負になると、迷う余地がない。一度しか書けないから、書きたい形を紙の上に思い浮かべ、気合で筆をおくしかない。先生はどのように動いていたかな、と。手本にしたい形をちらりちらりと、横目で見ながら、自分の紙に向かう。
頭の中にどれだけ先生の動きを思い出しても、手本をちらりとながめてみても。自分の身体を使って書く以上は、思ったような線が出てくれない。それでも、その時に出た線を活かせる形を考えながら、気合のままに筆をもった身体を動かす。身体の中に、その文字のエネルギーがぼんやりと宿る。
身体に文字のエネルギーが宿ったら、場所を変えて、半紙いちまいに同じ字を書いてみる。書く紙が小さくなった分、書く文字も小さくなる。けれど、出てくるエネルギーは変わらないから、収めるのに少し工夫が必要になる。
ああでもない、こうでもない。あれこれと試すうちに、自分の集中力が切れてくる。書けば書くほど、よくわからなくなってきた。比較的、形になった気がした4枚を残して、最後に「今日の1枚」を先生に選んでもらった。始めに書いた1枚(写真いちばん左)が選ばれた。
最初の1枚は、直前に書いた大きな字によって身体に宿したエネルギーをそのまま、半紙に移しとろうとした。それ以外は特に考えることもなく、無心に字を書いたように思う。2枚目からは、線のうごきや形、線の美しさなど、工夫しながら考えながら書き続けていった。
工夫して考えながら試すことも練習になる。けれど、考えている部分にもエネルギーがまわる。本質的なエネルギーの全てを使って形に出してはいない。本質的なエネルギーの全てが表にむかって動くのは、自分が無心である時だ。無心でものことに関わると、その時点で最良のものがやってきている。今回、字を見て実感した。無心である状態は目では見えないけれど、目の前に「無心」が字として表現された。そのおかげで、無心のことを少し知れた。
知恵の輪を解いたときにも、無心のもつ爆発的なひらめきを感じたことを思い出した。
目で見ながら、考えながら知恵の輪を外そうとしていた時には、全く外れそうになかったものが。手遊びをするように、かちゃかちゃと触っていたら突然外れて、驚いたことがある。そのあと、どうやって外したのかを知りたくて、観察しながら外そうとしたが、うまくいかず。あきらめて、手遊びをしたとたんに、また知恵の輪が外れた。
考えてしまうと、自分の信じているもの以上の出来事は起きなくなる。ただ、無心に取り組むとき、自分が信じているモノコト以上のことが、ふと起きる。無心でモノコトに関わることで、その時点での最上のものがやってくるのだ。
自分で考えてわかりたいという欲が、どうしても私の中にある。けれども、無心が最上を連れてきてくれることを、もっと信頼していい。
無心であることは、結果を天に任せてしまうことだ。必要以上に期待せず、コントロールもしない。ただ、自分が動くだけ。けれども、驚くほどに、自分自身が何かをしたという感覚はない。あっけなく、結果が出てきたように感じられる。
無心であることやゆだねることとは、それくらい、あっけなく。自分がよくわからないままに、目の前にあるのかもしれない。