菊の花咲く季節だから、今日は菊を食べてみようかと、食用菊を買ってみた。薄紫にしゅっとした菊の花。花の部分だけを摘み取って袋詰めされていた。ふたりで一度に食べるには少し多いかもしれない。家に戻って、せっせと花びらをむしり取る。
菊の花びらは、沸騰した湯にお酢を少し入れた中でさっとゆがく。しゃきっと歯ごたえ残すため、1分もしないうちに、湯から出す。水でさまして、菊の香りを飛ばし過ぎないようにざるにあげる。湯がいた菊の花びらは軽く絞って、おひたしにする。
菊のおひたしを作った日は、手の指がいい香り。ぽかぽかとあたたかくなる。これも、菊の花のおかげ。
初めて食べた菊の花のおひたしは、お姑さんが作ってくれた。私を気づかった標準語と日常に浸かっている地の言葉と混ざり合った口調を今でも覚えてる。
「ぽっちりだども、冬への力が入るよ。洋子さんは冬に慣れでねがら、食べない」
(ちょっぴり食べると、冬へ向けて力が入る。洋子さんは冬に慣れていないから、食べておいて)
寒くなる前に、身体をならしたほうがいいから。女の人の身体を作る食べ物だから。 慣れない味かもしれないけれどと言いながら、たくさん菊の花を食べさせてくれた。
菊のほろにがい味わいは、遠くに置いてきた1度目の結婚を思い出す。時がたったからなのか、気もちの折り合いがついたからなのか。今、思い出すことは穏やかで優しかった気持ちの方が多い。
お姑さんからは菊の花のことだけでなく、たくさんのことを教えてもらった。山でとる野草の食べ方、見つけ方、見分け方、保存の方法。東北の山の中で食べるおかずや保存食のこと、行事のこと、おまつりのこと。離婚するまでの4年ほどしか続かなかった往来だけれど、今でも覚えている。お義父さんもお義母さんも、たくさん心を配ってくれた。娘が欲しかったからと大切にしてもらった。
思いの掛け違いがはじまり、お互いの気持ちがゆがみ始めてからは、苦しくて重い感覚の方が強かった。 向けられるやさしさにこたえられない自分のことが嫌になって、重苦しくて。家族の前に出ることが息苦しくて窒息しそうだった。その息苦しさは怒りに変わっていった。どこにむければわからない怒りは、自分の内側へ、当時の夫へとむけられた。もう、どうしようもないくらい苦しくて、汚いどろどろな怒り。
別れてからは、怒りを出す場所がなくなって、自分の内側に 毒だらけで真っ黒な気体が ぱんぱんになるほど溜まっていたはずだった。それなのに、別れて何年も経ったあるとき。気づいたら、膨れ上がった怒りは、ぐるりんと裏返って。穏やかに優しい気持ちになっていた。
どれも、これも。仕方がなかったんだな。あの時は、ああするしかなくて。
それでも、今はありがたかったなと、穏やかに思い出せる。
父が亡くなった時も、菊の花だらけだった。祖父の待つ家にひきとられたとき、庭にたくさんの菊の鉢がならんでいた。
菊の香りをかぎながら、父が迎えにくるのを待っていた。寒くなっていく外をみながら、曲がり角から見えてくる父の影を待つ。 外が真っ暗になって、山の上に星が見え始める。空いっぱいの星たちの光。真っ暗な中に、星だけがざらりとひかっている。真っ暗なそらからおりてくる露のなかに、菊の花の香りが溶けていく。夜が更けるにつれて、菊の花の香りは薄くなる。そのころには、山の奥に住む妖怪が出てくる時間だ。外を見るのをやめてふとんにもぐる。
それを繰り返していくうちに、菊の香りは薄くなり、花の季節が終わって冬がきた。いちにちが寒くなって、父の迎えを待つことをあきらめた。……そんな記憶。
菊の花の香りは、邪気を払い、健康長寿を願うものだという。
菊の花をむしりながら、別れた時のさびしさと申し訳なさをちょっぴり思い出す。あのさびしさ達を思い出せるのなら、今はやさしくて穏やかな時間に過ごせているのかと安心もする。ボウルいっぱいの菊の花をむしりおわるころには、穏やかにやさしい気持ちだけがそこに残る。
あたたかくなった指先にのこる菊の香りを、ときどき嗅いでみる。こころ、おだやかに落ち着く。
今日(2019年10月7日)は旧暦9月9日。九九と陽の極まる九が重なって、重陽。菊の時期にあるから菊の節句と呼ばれる日。
▽重陽の節句について