小さなことも、さくっと決める。小さなことから「決める」練習。
「決められない、迷う」
メニュー表ひらけてから、なかなか食べるものを決められなかったのがわたしでした。
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はじめは、頭まっしろで決められなかった。はじめから、決める気力を無くしていた。
「これがいい」と決めても、親や大人、まわりの人に子どもらしくないと言われたり、変わってると言われたり。結局、じぶんの決めたものは手に入らず、周りが望む何かがじぶんの手元にやってくる(と思い込んでいた)。
大人になっても、自分で決められないことは続いていた。まわりをぐるりと見渡して、その時、自分に求められているだろう様子を想像して先回りする。先回りしてみてきたたくさんの事柄の中から、自分の好みに近そうなものを選ぶ。betterな選択。自分の一番すきなものbestは手に入れようとしなかった。
betterを探すには、周りが何を望んでいそうかをシミュレーションして自分の答えを出す。周りの望みを考えることは、たくさんの条件がかちゃかちゃと頭の中で組み変わっていくから、とっても時間がかかる。そして出てきた何かしらの答えも、正解であるとは限らない。なにより、自分のこころにぴったりと沿うものでもない。
周りにとっては、とっぴょうしもない答えにたどり着いていることもある。そのときは、場所・時間・様子についての条件補正。それができて、ようやく。じぶんの好みに照らし合わせてbetterな選択を探す。
そんな面倒なやりとりを頭の中でがんばってみたのだけれど。それも疲れてしまって。
「もう、好きに決めて」となげやりになってた。決める気力がわいてこなくなった。
「珍しい。もう、注文したいもの決められたの?」
15年ぶり!に会う友人とケーキを選びながら笑う。
前回、友人と会ったときには、まだ。じぶん自身の環境の変化を受け入れがたく、しんどかった時期。
友人のところの小さな女の子を膝の上にのせて、いっしょにご飯を食べながらお話をしたっけな。あのとき、注文したい食べ物をを決められなくて、友人にかわりに頼んでもらったな。他のひとと会いたくなくて、レストランの個室にこもってお話続けたな。
それが、今はどうだろう。自分で決められなかったころは、だいぶんと遠いころのことになってきた。
メニュー表から選ぶことすら迷っていたのに。
何かを決めたとしても、周りに合わせた、その結果だったのに。
今、じぶんで自分の選びたいものを決められる。そして、決めたことをすんなりと、自然にうけいれられている。
あの頃(メニューを選べず迷ってた頃)のわたしはしんどかったんだな。 そのとき食べたいものを、自分の好みで選ぶ。 それくらいにささやかな「小さなことから決めていく」ことも、できなかった。
もう、今は。じぶんで決めることができる。
15年もあれば、人は変わることができている。
自分があまり変わっていないと思ったとしても、やっかいな癖だと思っていたとしても。
「変えたい」と願い、繰り返し変わることを選んでいけば、 変わることができるのだ。
少しずつ、自分の好みを考え、選ぶ練習するうちに決められるようになっていった。
食べることの好きなわたしは、食べものについては特に迷うことが減っていった。
「やっぱり。食べ物がからむと、強いね」そう気がついて、ふとおかしくなった。
食べ物以外のことも、そのうち、もっと。自分の軸により沿う形のものを選ぶようになるはずだ。そうすれば、より自然なじぶんのままに。世界と関われる、はず。
15年前よりは、だいぶん、自分らしく暮らしてるんだな。肩の力抜いて、笑って暮らせてるのね。
自然なわたしで、友人と向き合えてるんだ。
久しぶりにその友人と笑った。学生の頃みたいに、ケーキつつきながら。近況を話して大笑いになった。
そういえば。膝に乗ってくれていた小さな女の子は、もう高校を卒業するらしい。