友人のブログを読んで、願いを叶える「叶えどき」のことを思ったとき。小学生の頃に見た、踊るような線と白黒がとびはねる書を思い出した。そして「絵をかくように踊るように書を書きたい」と願った小さかった頃のことも一緒に思い出した。
「叶えどき」のことを書いていた友人は、書家でもある。
そのせいか、その友人の書くことばをみていると、祖父のことや空気のにおいを思い出す。
祖父も書家だった。小学生のことばでいうなら「習字の先生」。
精神統一にきっと役立つから、と。わたしに書を教えた。
目の前に、真っ白な紙を置き。じっくじくと墨をする。
紙を前にして、集中する。
集中は、目の前にある紙の上におきるのだけれど、紙と自分の間にある空気にも集中する。
筆を手に取る前に、紙の上に字の形を思い起こす。
くっきりと、字の形を思い起こせたら、一気に筆を運ぶ。
祖父から書を習うわたしは、良い生徒とは言えなかった。
練習の間やいつものときは手本とする字をまねることになる。そのきゅうくつさが、習わされている感覚を強くして集中が続かないことも多かった。
あるとき。祖父の教え子たちのなかで、書家として活躍はじめたばかりのお兄さんが書を披露してくれたことがあった。
大きな筆で、踊るように。白と黒がいきいきと飛び回る絵を見ているような書。
その楽しそうな、体いっぱいの書が大好きになった。
お兄さんのように、大きな書を書きたい。
大きな書は、展覧会に出すための書。手本がなく、自分で思う形を紙にうつし出す。
字の形を師匠である祖父に相談することはあるけれど、書いている間はひとり。紙に向き合う。
ひとり、向き合っている緊張感。筆を運んでうかびあがる、文字の形。
いつもより、大きな筆を使って。体いっぱい、踊るように文字を書く。
小学生の頃、あたりを墨だらけにしながら書いた、大きな書。
あのときの緊張と、楽しさ。
「絵をかくように踊るように書を書きたい」 と願ったことがあった、と思い出した。
「汚れるから」「もうずっと筆を手にしてないから」「祖父はもういないから」。
いろいろな理由をつけて、またやりたいと思わないようにしてきた。
少しだけでも動いてみようか。
ふと、そう思った。
—–
やらない理由。ほんとうにたくさんみつかる。
やらない理由があったとしても、それでも。魔が差したみたいに、ふと。
少しだけやってみようか。動いてみようか。
そう思うときがある。
ふと。タイミングが合う。
「ふと」
これ、ものすごいエネルギーをこころの奥がじぶんにむけて伝えてきたということ。
ずっと、やらないと思ってきたのに。やりたいと思ったことも忘れていたのに。
それでも、やってみようと思えるときがくる。
そんなことも、あるんだな。
「 でも、自然の流れに沿っていても、叶えどきが来るときは、来る」
友人が書いていた言葉が、すとんと心にはまり込んだように感じた。
友人に、わたしも書いてみたいと連絡を取った。
7月の終わりころ、また、書をはじめる。新しい形の書。祖父のものではない人の下で始める書。
書は続くかもしれないし、続かないかもしれない。
「やってみようかな」と思ったことを大切に、気軽に動いてみよう。
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