ひとりでは見えないところがある。
じぶんの中では「これだ」と思っていた望みの形。
じぶんではない他の人に説明するつもりでことばにしていくと、ことばにできない。
少しは文字になってくれるのだけれど、
ほんわりとしたかたちにでも、イメージを持つことができていなかったと気づく。
今日、知人と「なりたいもの、仕上がってみたい暮らし」の話をした。
そうしたら知人に聞かれた。
「ようちゃんは、どんな暮らししながら、これからを生きたいの?」
山っぽい環境で、森がある場所。
風が通ってて、鳥の声も聞こえる。
家の前の畑やったり、山を歩いて薬草を集めて
で、山や環境がいいところでおやすみしたい友人が知人と一緒に遊びに来てくれる。
そんなばしょをつくりたいの。
……と、答えてはみたけれど、伝えるうちに違和感がこころのなかに、ぷちんと芽を出した。
「どのような暮らし方をしながら、これからを生きてゆきたいか」
このことは、この10日間ほど、あたまの芯に焼き付いている問いかけ。
何度も、くりかえして。
何度も、整理して。
「こうしたい」と固まり始めていた、わたしの望み。望む暮らしのかたち。……そのはずだった。
でも、知人に向けて説明していくと、じぶんの内に感じるざわりとする感覚が大きくなろうとする。
どこか、なにか。
わたしの望みの形とは、ずれているのかな。
今、街の中に住んでいるのが嫌だから、森に行きたいと言ってはいないか。
街のアスファルトの上にいるから、山の土の上が恋しくなってるだけではないか。
じぶんの頭の中でできあがったつもりでも、だれかに説明したら、じぶんの内から違和感が出る。
「やりたくない」と思う、今のなにかをひっくり返したくて
「やりたくない」その反対のことを「やりたい」と言ってるだけではないか。
今、嫌だとおもうことの「反対のこと」だからやりたいだけではないかな。
じぶん自身が、じぶんのこころに疑いを持っていた。
ある程度の疑いは、もう晴れたと思っていたのに。
知人と話すことで、まだ、じぶんで自分を疑っていると知った。知ることができれば、手を打てる。
やりたいから、やるんだよ。そういえるだけのものを、じぶんで納得して動く。動きながら納得する。
ひとりでは見えないものもある。
それは、みな同じ。
わたしに見えないものを、ほかの人がみつけてくれる。
ほかの人に見えないものを、わたしがみつけられることもある。
話したり、動いたり。しているうちに、お互いに情報がいったりきたりして。
みえてくるものがある。