新緑が少しずつ濃くなって、樹がもりもり元気になっていく。
駅から帰る途中、反対から近づいてきた車を避けるため、道の脇に立ち止まった。
とおりにはみでている枝に小さな実がついていたことに気づいた。
桑の実だ。
まだ実は色づかず、先についているとげとげもまだとがっている。
ここに、桑の木があったのか。
主に、週末にはこの道を通っている。
冬は、庭先にあったスイセンの花がきれいだった。
春は、そのすぐとなりにある桜のはながきれいだった。
そして、春が夏に向かい……桑の実がなっているのをみつけた。
まだ、色づいておらず、全体的にみどり色をしている桑の実は、葉のみどりにまぎれて見えづらい。
でも、そこに桑の実があると知った。
「ある」と知る前は、立ち止まらないと見えなかった実。
「ある」と知ったら、歩きながらでも、桑の実の色のつき具合がみえるようになった。
実がついているのを見つけてから、その樹の前を通ることが楽しくなってきた。
きょうは、どれくらい色づいたかな。
樹の前をあるいて通り過ぎながら、桑の実の色をきょうも見る。
じぶんの中にある「これ普通でしょう」と思っていることは、じぶんでは当たり前すぎて、意識すらしていない。
そういうものも、一度、じぶんで「ある」とわかれば見えてくる。
「ある」とわかれば、じぶんの目の前に姿をあらわす。
姿をあらわせば、別の位置から見ることもできる。もしかしたら、触ってみることもできる。
「ある」と知れば、ぐんっと立体的にみえてくる。
みえれば、片づけることもできる。手放すこともできる。中におさまりよく置くこともできる。
動いても、ゆらいでも。なんとかなる。
そんな気がする。