消える。それは予祝になる-写真に写らないわたしはどこに消えた?

カメラを起動して、シャッターを押す。すると、取れた写真が静止画として記録される。その流れは変わらないはずなのに、わたしが写真に写らない。友人のかまえていたカメラに気づかず、動いているわたしは写真にのこらない。

カメラのレンズとわたしの眼があっていると写真は撮れる。光やコケや風景によそ見をしているわたしを撮ろうとすると、写真が撮れない。

なぜだ。知らない間にわたしは吸血鬼にでもなってしまったのか。……写真が消える現象は、3日続いた。今日は、映るかな。

そういえば、前にもやたらと写真やカメラが壊れまくった時期があったと思い出した。離婚した後、もう仕事だけに生きるとやけになっていたころのこと。業務の中で工事看板を持ち施工写真を撮ってもらおうとしたとき、わたしが看板を持つと写真が撮れない不具合が多発した。

そういえば、何かモノコトが大きく動いていくときに、スマホが壊れたりパソコンがなくなったりする人があるという。写真に写らないのも、写真が撮れないのも、そんな変化のしるしのひとつかもしれない。……と思うと、あの不思議は吉兆におもえる。

ちょうど今。夢やライフワークをかなえていて、より自分らしくそのままに暮らす。その暮らしはどんな感じだろうかと、よりぴったりとあてはまる言葉や感覚を探っている。

来年にむけての自分の姿をあれこれと思い浮かべている時期でもある。どんな年にしようか、何をかなえようか。どこに行こうか。思い浮かべて、どきどきたのしんでる。そして、カウンセラーやセラピストとして、どうやって人と向き合うのか。言葉にしたくて手書きなメモをたくさん書きなぐっている。

それが、何かしらの実を結ぶ。夢やライフワークをかなえて、時々、はなうたまじりで過ごしている自分に気づく。

……そんな未来がそこまできている吉兆だと思おう。

写真に写らないわたしは、どこへ消えた?
ー 今、見えている表から、見えない裏へと消えた。

(見えている表と見えない裏のことを考えていたのは前日、満月の夜)

表から消えたわたしは、裏にあらわれているかもしれない。
裏側から見ていたら、いきなりわたしが出てきたように感じられるだろう。

そうだとしたら。消えたわたしと現れたわたしを、どう考えようか。
ー 時間を超えて、ライフワークや夢のなかに暮らしているわたしのところに向かっていったことにしよう。

写真に撮られるその瞬間、ライフワークや夢をかなえた中にいるわたしそのものだったかもしれない。それは、まだ今のわたしとは、混じりあうことができなくて、この先にいる夢をかなえたわたしの内に溶けたことにしよう。

そうなると、これは 予祝(よしゅく)だ。あらかじめモノコトがうまくいったことを祝い、そこにむかう自分を支えてくれた人や環境に感謝をする「予祝(よしゅく)」。

予祝は、豊かな実りをねがうおまじない。

まだ冬のさむいころに、次の年の実りにむけて咲く花が多く開きますように、実りが多くなりますようにと、あらかじめ祝う様子を 予祝 といった。まだ花が咲いてもいない木を見ながら、花見をする。たくさん花が開いて、うれしいなあと皆で喜び合う。その喜びが木にのりうつって、その年にたくさんの花が咲くようになる。そういった考え方をもとにしている。

予祝といえば、わたしはサクラのイメージ(この春にうつした新宿御苑の桜)。サクラ咲く春を願って前祝い。

もし、今とった写真が消えたことが予祝 になるとしたら…… いつのわたしの。どんな姿を撮った写真になったかな。ライフワークや夢のなかに暮らしているわたしの元に。とあるとき、ぽこっと。今日撮ってもらった写真がうかびあがると、おもしろいだろうな。

ライフワークや夢のなかに暮らしているわたしは、どんな風に暮らしてるだろう。

おはなしの本はもう、書けたかな。カウンセリングメニューに「ものがたり」を入れて喜んでもらえたかな。あれこれと、ライフワークと夢をかなえた暮らしを具体的に妄想しつつ、今日消えたわたしの写真に会えることを楽しみにする。

その後、カメラ目線で。ばっちり写真を撮ってもらえた。これは、今のわたしそのものらしい。

▽ 夢などかなえるのは怖い。かなうと、どうにかなってしまいそう。

▽ 夢がかなうと困る。そこにある心のようすを探ってみた。

田村 洋子

”気配は答え。気配は本物。
気配を感じて、じぶんを生きる。”
*自分の才能や可能性を最大限に発揮するためのプログラム提供
●魂振=意識の周波数を上げる実践のマニア*瞑想と呼吸実践が日課

活動理念:
●見えないものを見える形に ◆笑顔ではなうた、おいしいごはん #じぶんを生きる 自然に生きる

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