直感とのつきあい方

直感を使って過ごしてみる。直感も採用しながら、暮らしてみる。……みたいな表現を聞いて「うーん、どうすればいいんだろう」と困ったことはないだろうか?

わたしは、すごく困ったことがある。だって、何がどんな風なのが、その相手さんのいう「直感」なのかがわからなかったから。

人によって「直感」の感覚て違うよね。

頭の中にいきなり降ってくると表現される方もあれば、ひらめきの感じと言う方もある。心理学的な勉強(?)をしているなかでは、理屈じゃない、何か感覚的なものが直感だと表現されることもある。

わたしのなかでは「直感」て、身体の感覚というか、肌の感覚で「ふと」したときに感じ取ることのできる、ことばになる前の感覚だとわたしは思ってる。(がんばれば、ことばにできるんだけれども、まだできない。または、ことばにするには瞬間的で自分にもまだ理由や理屈がつけられないようなイメージ)

あなたにとっての「直感」ってどんな風に説明できますか?
ちょっと考えてみてください。

(こうして、ことばにして説明しようとする過程の中で、自分にとっての「直感」はどんなものなのだか。自分自身でわかってくるので、おもしろいのです。やってみて?)

そうして、わかった、自分にとっての「直感」。その感覚と自分とで
今をどう過ごしてみる? どんな風に暮らしてみる? と。おはなししながら、相談しながら過ごしていくのが、「直感を使って過ごしてみる。直感も採用しながら、暮らしてみる」ってことじゃないかと思ってます。

さておき。そして「直感」とのつきあい方について。ちょっと気になったので、ひとこと。

直感(ひらめき、天からの声、見えない世界のことば。などなど)。
それとのつきあいかたも、人とのつきあいと同じ。

誰か、他の人から何かを伝えられたとして。そのことばについて、どうするかは自分で考えてみるでしょう?

誰から伝えられたのか。その相手さんとの関係性や伝えられたタイミングや。
相手さんがそのことばによって伝えようとしていたであろう意図と、自分の思うところとを比べたり考えたりしつつ、感覚もとおして自分が選んでいく。

相手が何を言っているのか。何を伝えようとしてるのか。それをよく聞きつつ、自分はその意見を採用するかしないかを選んでいく。

それなのに直感至上主義のような場合には、直感が何を伝えようとしているのかなど、自分で考えることなく、直感こそ最上!(直感以外は勝たん!)みたいなようすが見えることもある。それは危ういなとわたしは感じるのです。自分で考えもせず、誰かの意見を丸呑みにしてるような印象を受けるのです。

そこに「自分」は、いるのかな?

今回の自分は、直感などの意見を採用しようと自分で決めていて、直感に委ねることにしているのなら、直感に無条件に従ってみる。そんな期間はあってもおもしろいとわたしも思う。(直感に従ってみてどんな結果が見えたか。検証をしていくことで、自分にとって有効な直感をうけとめる精度が上がるから、ね)

直感も、感覚のひとつ。聴覚やら視覚、触覚などなどと同列の感覚だと思えば、そこまで偏った選択はしないように思ってます。

直感は、何を自分に伝えているように思うのか。
直感をきっかけに、自分は何を思うのか。

それを自覚してから、自分で選ぶ。この選んだ感覚も持ったうえで、直感の意見を採用したいなと思うのです。

なので。直感を採用してみたら、しばらくしたその後の自分のようすを観察してみる。

もしも、直感に従ってみたと自分が思うけれども、いつまでもその選択に右往左往してたり、ものすごく悲壮な感じになってくるなら、直感への不信感がまだ大きすぎるように見えるし、何かが自分にとっては違うのかもしれない。

もしかしたら、直感が伝えてたコトとは違う意図をくんで動いているかもしれないし、やってみたい何かが「直感の意見」以外にあるのかもよ。

そんなときは、まず。あらためて自分の思うままにやってみる。そのあとで、また直感に従ってみる時間を持てば、試行錯誤ができて検証もできる。感覚のひとつとしての直感をうけとめやすくなるかなと思うのです。

そうはいっても、バランスだいじ。直感を遠ざけすぎると、迷子になることもある。

直感的に、パッパッと選んでたときには、俯瞰すると見えていたはずの「自分」なんだけれども、説明欲にとらわれすぎると迷子になる。

直感で選んで来たものも、なんとか説明したいぞ!と説明欲のままに、ふとした感覚を選ぶときからことばも探りながら選んでくと、ことばにした隙間から何か、直感の持ってた気配がこぼれおちてしまって「自分」がブレるみたい。(ことばを選んで説明しようとしていくなかで、期待や損得勘定が増え過ぎるからじゃないかと、わたしは思ってる)

感覚的に迷子になってるなというときは、ことばの説明に寄せ過ぎてたかもしれぬとき。感覚より頭を動かすことに意識を向け過ぎてたかもしれぬ。

そうなったなら、今度は。感覚(直感)に舵を取る。

説明も理由も、あと付でいい。
感覚が教えてくれてるコト、もっと大切にしてゆきたい。

感覚を感じとったり気配を察知したりする能力を、ヒトは古代から持ってる。
その能力、今の時代にも、もっと信頼してみようか。

感覚は、かなり正直ものだから、自分の本心を伝えてくれてると思ってみよう。
気配にもセンサー、向けてみよう。

そうすると、今を生きている身体と、時間を関係なく動いてる心とが重なりやすくなる。今の「自分」を生きやすくなる。

心だけでも「自分」にならず、身体だけでも「自分」にならず。
直感も、意図も。身体も(その健康も)。周りとの呼応も、世界との共鳴も。
まるごと、全てそろっていての「自分」

……直感とのつきあい方のおはなしが、ずいぶんと大きくなってしまったのだけれど。そんな感じ。
少し意識して過ごしてみたら、改めて「直感とのつきあい方」が身に染みてくるよと思っているのです。

よりよく知るには、こちらも読む

>>直感をつかって生きてみる。直感てなんぞ?
>>直感と思い込みと、その見分け方

それでは、またね
田村洋子でした。

直感とも二人三脚、身体とも二人三脚

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田村 洋子

”気配は答え。気配は本物。
気配を感じて、じぶんを生きる。”
*自分の才能や可能性を最大限に発揮するためのプログラム提供
●魂振=意識の周波数を上げる実践のマニア*瞑想と呼吸実践が日課

活動理念:
●見えないものを見える形に ◆笑顔ではなうた、おいしいごはん #じぶんを生きる 自然に生きる

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