「慣れ」ってよくも悪くも、自分自身に大きく作用するなと感じてる。だから、自分が日常で何に/どんな出来事、どんな環境に触れているのかって、すごく大事にしたい。
というのも、先日。久しぶりにオペラと能の舞台を見に行ってきたのです。(ちょっと遠回りになるのだけれど、少しはなしにおつきあいください)
オペラも、能もどちらも好きで見に行く機会もそれなりにあった。人の身体を響かせ遠くへ声や心を届けようとする。そこにあるものがたりが、わたしの内に溜まってる記憶と共鳴して、心が揺れる。聞いてるわたしの身体とことばが、オペラの歌曲や能と響きあい、呼吸が空間へと拡がっていく感覚が好きだった。
数年前から、舞台を見に行くには窮屈な世の中になっていて、わたしも見に行くことをやめていたのだけれど、様子も変わり。舞台を見に行く気になった。
能を見ることになったそもそものきっかけは、仕事でお世話になっていた方(仮にA先生としておく)に誘われたから。(江戸時代後期の日本の暮らしについて調べている方々の資料整理をお手伝いする仕事をしていたのです)
そうして、初めて能を見てから年に数回ずつ、見る機会を持ってきた。
能は、神社奉納で見かける舞のように華やかな音が鳴り響くわけではないけれど、独特の声のうねりや動きに潜む間がなんとも好ましく。自分の内側にあることばと呼吸のリズムと、外で鳴っている楽器の音と声のうねりが共鳴してきて、そこに創られてる世界を旅してるような気分になれる。
それに、わたしはそのA先生がとても好きだった。穏やかで深みのあるA先生のような人になりたくて、A先生が観に行く能を真似をしてみていた。
そんな理由で、能とおつきあいしてきたのだけれども、資料整理の仕事を数年前にやめた。A先生とのやり取りの回数も減り、能を見に行かなくなった。
けれど、知人たちが素敵だったよと教えてくれた能を見に、数年ぶりに能を見に出かけた。能を見ていた時の、そのうねりの共鳴を感じたくて出かけたら、困惑するはめになった。
以前のように、自分の内側と外に聞こえることばや音のうねりとが共鳴できない。
古い日本語からくる独特の言い回しが能のなかにあるのだけれど、その言い回しの意味することばがわからない。「わからない」自分に意識が向くから、能の音との共鳴どころではなくなってしまう。
それは、まるでスキップの途中で地面の上にあったくぼみに足を取られるような感覚。うきうきとことばとリズムを楽しんでたはずなのに、ん?という違和感をおぼえて、しゅっと真顔に立ち戻る。みたいな。
そういえば、資料整理から離れてしまったこの数年は、古い日本語から離れていたってことを思い出した。古い日本語を見たり聞いたりって祈りや祭祀の時にみる和歌くらい。以前のように資料の読み込みも必要なくなったし、何かを書くこともしなくなった。
日常で触れるのは、いつもの日本語(?)と砕けた口語調の文を見たり書いたりくらいだと、こんなに忘れてるものなのね。感覚も遠くなってる。
一方で、オペラは今、聞いても身体と歌との響きあいをたのしめた。
その能とオペラとで、この違い。わたしがこれまでに触れてる頻度と体験してきた量から出たと思う。
オペラは自宅にいても流し聞きしていることもある。Youtube動画や音源があるから比較的日常的に触れやすい(週に1~2回しか聞かないものを”日常的”と言ってよいのか迷うところではあるけれど、数年、触れることのなかった能に比べれば……)
歌や歌曲は聖歌隊のアルバイト(?)や趣味で、わたし自身も中学生の頃から歌う機会もあり、今までやすみやすみ関わってきていた。
でも能は、A先生のようすに憧れるわたしは変わらないつもりなんだけど、いつの間にかわたしから遠ざかっていたみたい。音の感覚だけは覚えているのに、意味をひろおうとすると突然、世界がとおくなる。
*
慣れる。ってすごいね。
古い日本語を自分では読めない、わからない気がしていても、触れていたあいだは、読めなくてもそのリズムが身体の中で目覚めてた。読めないなりに、その感覚を感じる要素が備わってた。
だとしたら、ヒトは自分で理解ができていなくても
周りにある環境に影響を受けているってことは確実。
自分ができることでも、自分にはできないことでも。
周りに、それが存在しているだけで、その影響を受ける。
自分が意識していることでも、意識できていないことでも。
周りに、それが存在しているだけで、その存在に慣れる。
そして、自分自身で体験し、自分自身が行動してみたことは、その体験量や行動量の分だけ自分の内に溜まっていく。
環境から影響を受けたり、慣れたりするのが、ヒトとして当たり前の反応なのだとしたら、それをいいように使ってみるといい。
体験や行動の量だけ、自分の内で「普通」として溜まっていくなら、好ましい体験と行動をする機会に慣れてみる。
今の自分にはできないし、よくわからないことだったとしても、次の次のステージにレベルアップした未来の自分ができていて、わかっているかもしれないモノコトは、今の自分が触れられるようにしてみる。かけらでもいいから、触れるように用意する。慣れるくらい、日常の中に増やしていく。
例えば、レベルアップした自分が着ているだろう服を写真画像で切り抜いておく。実際にお店に行って触ってみる、実際に買って家でながめる。
未来の自分が過ごしてるであろう場所で数時間滞在してみる。その場所の雰囲気を満喫してみる。
反対に、未来の自分はやってないなというものは、今の自分の環境からも取り除いていく。
そんな風に、未来の自分の目指してる環境を、先取りして今の自分に触れさせる。触れているうちに、そこに在ることに慣れる。日常の中で当たり前の感覚になっていく。
慣れて、当たり前になったなら、もう。目指していた未来の自分になれたってこと。実際に、そうなれるときは近い。
(足を止めなければ)
そう思ったら、責任重大かもしれぬ、今の自分。
周りを見渡して、考えてみる。そして、指差し確認。
それ、未来の自分が使っていそう?
そのこと、未来の自分だったらやっていそう?
未来の自分は、それが身近にある暮らしをやっているかな?
未来にいる理想とした自分が慣れているのは、どんな環境だろう?
何してるだろう、しあわせに未来を生き生きと過ごしてる自分は…
あこがれてる気持ちは変わらなくても、それとの関わり方は変わる。なりたい姿を求めつつ、今のわたしの創ることのできる形で、環境を未来のわたしに向けて整えてみふ。
そんな目線で自身の日常にあるモノコトを、選び直して。整理を進める。
整理を進める自分の手が止まりがちなら、その理由を自分に聞いてみる。そして、手を動かしてみようと心がける。
それでも整理の手が止まるなら、それは理想の自分を、未来の自分の姿を描きなおすとき。
描きなおそうにも、その力が湧きづらいなら、それは罪悪感のしわざ。エネルギーの向きを再確認して、愛を思い出す。
*
罪悪感を手放して、本当の自分に出会う方法をお伝えします
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>>https://tamurayoko.jp/archives/5002
それでは、またね
田村洋子でした
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