「どうして、ほめてくれるの?」
あるとき、友人に聞かれた。
わたしは、その友人をとおして見えてくる世界がとても好きだ。
ことばをとおして、友人が届きたいと願っている世界や日常にある風景を見せてくれる。
同じものを見ているはずなのに、じぶんが想像もしない場所に「愛」をみつける。そして、その愛をわたしにはとても思いつかないことばを使って表現してくれる。
それは、とてもやさしい世界。ほわあとため息だけが出てくるような、愛にあふれる世界。
友人をとおして見えるやさしい世界。 その世界に敬意をもって。じぶんが感じたことをただ伝えているだけ、感想を伝えているつもりだったから。
「別に、ほめているわけではない」とわたしは答えた。
それを聞いた友人の顔がこわばった。友人にはネガティブななにかが伝わってしまったのかもしれない。
こわばった友人の顔を見て、わたしのこころも止まった。
「ほめる」なんてわたしにはできない。 友人のみせてくれる世界には、「良い」「悪い」などの価値判断なんて入る余地もないのだから。感想を伝えたくて、ことばを重ねたつもりだった。
なぜ、感想を伝えていたのか。
それは、友人にあなたのもっている世界が好きだよと伝えたかったから。
……そのはずなのだけれど。
感想を伝えているつもりで、わたしの「好き」を友人に押し付けていたのかもしれない。
なにか、わたしにとっての得や利益になるものを友人から奪おうとしていたのかもしれない。
友人のこわばった顔を見た、その時から、わたしの一部がしゅんと冷えたまま。冷凍されたようにかたまりで保存され。ずっと、あたまの中に残ったままになっている。 どうしてだろう、と考えている。
気配やエネルギーは、ことばの上に乗ってくる。
友人に感想を伝えながら、その裏側で。じぶんの世界を表現できないじぶんを責めていた気がする。
友人が見せてくれるやさしい世界にうっとりしながら。その後ろでは、じぶんがやさしい世界を作れない気がして落ち込んでいたかもしれない。
だから、友人に感想を伝えているつもりのことばに、重く苦しいじぶん自身を「責める」エネルギーが乗ったままになっていたかもしれない。
耳に伝わることばはほめていると感じられるものなのに、そのことばに乗るエネルギーには重苦しいものが交じる。そんな思いエネルギーを乗せられたことばは、なかなか言葉そのままにうけとることが難しい。
特に、人の感情を敏感にキャッチできる特性を持つ友人であればなおさらのこと。さぞ困惑し、悲しくなったことだろう。
もし、感想を伝えるのなら。
わたしも友人のように愛のある世界をことばにしたいと思ってること。頑張りたいなと思ってることを、あわせて伝える。
そうすれば、裏側に隠そうとしていたじぶんを責める重苦しさも、重苦しい理由が見えるから。
友人に向けた感想も。もっとストレートに「ほめる言葉」として届いたのかな。
友人の顔をこわばらせてしまった、あの時から半年以上もすぎて、そんなこたえをわたしはみつけた。
そして、できることなら。最初は、じぶんを満たすところから始める。そうしておけば、裏表もなく、よりストレートに。相手に気持ちを伝えられる。
じぶんのことを自分で満たすことができて。ようやく、ほかの人へ純粋なままに意識を向けることができる。
ことばを音にして発するとき、そのことばに乗るエネルギーがある。
相手になにを伝えたくて、そのことばを選んでいるのか。
そのときには、自分自身にどのような気持ちを向けているのか。
どちらにも意識を向けていられるよう、ことばを間引いて使うことのできる人でありたい。
そして、まずは。自分自身をうけいれていられること。
フラットに、じぶん自身をみていられるわたしであること。
そこがあって、ようやく。人に向かうことができるのかもしれない。