頭が少し疲れたので、ファンタジー小説を読もう。……と完全なお気楽モードでお話を読んでいたら、自分の望みについて考え込んでしまった。というおはなし。
久しぶりに荻原規子さんの書いた本を読んだ
荻原規子さんの書くおはなしは、和製ファンタジーとでもいうべき世界観。そこには、見えない世界とまじりあう現実を生きる人の姿がある。目に見える現実だけでなく、見えないものをかすかに感じ取りながら暮らす世界。
その世界観が好きで、たまに読みたくなる。 年明けからしばらく荻原さんの書いた本を手にしておらず、久しぶりに読んだ。久しぶりだったからか、なかなか本を閉じることができない。電車移動中にも、もりもり読んで、あっという間に読み終えた。
今回読んだのは、「あまねく神竜(しんりゅう)住まう国」。
伊豆へと流された少年期の源頼朝が、伊豆に根を下ろしていく姿を描いたおはなし。
そこで、とあるシーンでのことばに。ぐっときた。目が止まった。衝撃を受けた。
そなたが今、本当に望んでいることは何かね。いろいろ見失っているようだが、そなたに足りないのはもっと自分自身について考える力だよ。だれかのためとごまかすのではなく、そなた自身のために抱く、切なる望みがいえるかい。
荻原規子 作「あまねく神竜(しんりゅう)住まう国」より
これは、とある年長者が頼朝に向けてかけた言葉。
命を狙われていた頼朝が、いまの状況から抜け出したいと願い、年長者の話を聞きに行く場面でのことだ。
さて。困った。この言葉を見て、「いろいろ見失っている」心あたりがありすぎるわたしも考え込んだ。
「わたしが今、本当に望んでいることは何か」と聞かれたときの答えとして、「わたしは、〇〇をしたい」というのも、答え方のひとつだ。
「わたしは、〇〇をしたい 」と答えるとき、〇〇にあてはまることばを思いつくのは、それほど苦にならない。小さな、身近なものであるならば、いくつか思いつくことがある。
けれども、「わたし自身のためにもつ、切なる望み」をわたしは思いつかない。
だれかのために持つ望みではなく、わたしがわたしのために持つ望み。
そういった望みを、わたしは持っているのだろうか。
お話の中で頼朝も「衝撃を受けて」考え込んでいた。
(自分に望みがないなら、わしはわしという人間でなくてもよくなる……)と。考え込んだ後、自分の感情が揺れた瞬間のことを思い出しながら、ある望みを答えていた。「実現可能だとは思われない」と感じている望みを、自分の本当の望みとして告げたのだ。
わたしが、わたし自身のためにもつ切なる望みがいえないこと。これは、じぶんの持つ望みの実現法が分からないから、と。はじめから望みがなかったことにしてるのかな。
自分のもつ望みが「実現可能だと思えないから」意識の表面に浮かんでこない。少し意識の表面に出てきたとしても、気づかない。
では。
超人的な。思いもよらないことがおきて。なんでもかなうのだとしたら。
わたしは何を望むだろう。
……そのように、おおげさにとらず。もっと。力を抜いて。
小さな、身近な。ささいな。望みを積み上げていけば、おのずと「自分の望み」がみえるのだろうか。
もしかすると。
自分のもつことばの使い方と違った表現に戸惑っているだけで、ほんとうは「自分のもつ望み」をわかっているのかもしれない。
それでも、「今、本当に望んでいることは何か」と聞かれて、こたえに詰まることは確かなこと。
ふいに、聞かれても答えられるだけの用意ができたとき。
その望みはかなう。