いつも、身体の感覚を追いかけている。それは、身体は目に見える存在だから。自分で自分のことを見つめやすい。
だって、心は目に見えない。だれか、他の人と話していく中で、見えてくるものもあるけれど。ひとりで、自分を見ることは、なかなかに難しい。なにかあるたび、メモに書いてノートとお話しするのも、めんどう。
(めんどうでない時や切羽詰まってるときは、ノートにぐりぐりと吐き出していくのだけれど。それほどでもないかな、というときは、なかなか。やらないことが多い)
心の不具合が起きた時も、まずは身体の感覚を追いかけてみる。
身体の、どの部分がぞわりとざわめているのか。
言葉にならないものが、潜んでいる場所の熱量の感覚のようすや。
考え始めた時に、きゅっと熱くなってくる頭の部分とその感触とか。
ひたすらに、身体に出る感覚を追いかけている。
そして、何もない時でも。感情の揺れ動きと、身体の感覚とを、ぼんやりととらえるように意識している。
これは、感情が遠くにあると思っている(思い込んでいる?)わたしが気をつけていること。心を追えないならば、身体の感覚を追えばいい。
この。感情が身体から離れている感覚があるからこそ、観察者でいることができるのかもしれない。そう思うと、感情を考えすぎる自分も、なかなかにいいものだ。
心が、とても苦しくなった時。身体の反応を探ってみよう。
どこが、あつくなっていて。どこか、もぞもぞしているか。
そして、どこにこわばりがって。どこに、言葉にならない熱がひそんでいるか。
その身体の感覚と、じぶんとで。ゆっくり対話してみれば、いつもとちがう景色が見えてくる。選択肢が増えることもある。世間に収めきれない、自分のこころが現れる。
▼ twitterでは、身体から心にはたらきかける方法、身体を乗りこなして心を乗りこなす方法をつぶやいてます。