それが起こるのは決まって丑三つ時(午前2時ころ)。 ガタゴトと床の下や天井の上で騒がしい音が聞こえるようになったという。
わたしの実家は、農村地区にある。周りにぽこぽこと畑と田んぼ。道路のない側は鼻をつままれてもわからないくらい真っ暗。夜には、人の気配もない。
それなのに、夜になると聞こえるガタゴト。実はネズミ達の足音。夜に人が寝静まってから、活動をはじめるネズミ達が動き回っている音が響いてガタゴト聞こえてくる。
今年の夏まで、実家にはネコがいた。正月帰った時には3匹いたネコも、事故にあって1匹いなくなり。病気が重くなって1匹は天に召された。
最後のネコは14年くらい生きていた、一番おとなしくて、遠出をしない臆病なネコだった。家に居る間、他のネコのようにスズメやハトを持ってくるでもなく、バッタをくわえて遊ぶでもなく。自分のことをニンゲンだと思っている節のあったネコだった。
「のんびりした、ネコらしくないネコだね」といつも笑われていた。
その最後のネコは、夏のある日に出かけたまま、もうずっと戻ってこない。 すぐに帰ってくると思ったけれど、戻ることはなく。どこかで亡くなってしまったか、他の家で飼われ始めたか。
そして、今。実家にはネコが一匹もいない。
ネコがいる間は家のネズミもひっそりしていた。それなのに、ネコがいなくなったら、急にガタゴト大騒ぎだ。
鳥が捕れなくてもいい。ネズミを捕れなくてもいい。ただ、ネコがいてくれた。それだけで丑三つ時のガタゴトはなかったし、ふとんに潜り込む愛らしさを堪能できた。
何にもしないネコだったけど、 ネコらしくないネコだったけど、 いてくれただけで良かった。いなくなって、思っていたよりネコの存在が大きくて驚いた。
ゆうべもガタゴト音がしていたと母からメッセージが届いた。夜も部屋の灯りをつけたままにしてみるらしい。これでガタゴト音が消えない時は、どうしよう。ネコを飼おうか、ネズミ駆除の調査を頼もうか。母は悩んでいるという。
そばに居るときは気づかないことが、いなくなってから見えることもある。
いてくれるだけでよかった。たぶん、人だってそうだ。
別れてから、離れてから。いてくれた、その存在の大きさを知る。
わたしにとって、それは祖母だ。迷信深く、人づきあいが苦手で、祖父に愛され、周りからは奇妙な人と言われるほどに夢見の世界に生きていた。
祖母は息子であった父と同じようにわたしを育てたくて、何かあるとすぐに「男だったら良かったのに。跡を継げたのに」と言われた。現実と夢見の境があいまいで、話の途中で夢に入り込むことも多く、周りから気味悪がられたことも多かった。だから、祖母とはなすことが苦手だった。
それなのに、祖母が居なくなり、祖父も居なくなり。片づけを終えてから、わたしの心にちいさく穴ができた。
祖母がいたから、亡くなった父のことを聞くことができた。まつりの理由を知ることができた。夢見も嫌いじゃなかった(好きだった、かもしれない)。
いなくなって、はじめて感じた。
会えなくても会わなくても、いてくれるだけでよかった。
だから、わたしも。今、どこかで、だれかに「いるだけでいい」と思ってもらっているはず。わたし自身にその実感はなかったとしても。
その人が、わたしを好きであろうとなかろうと。どちらにしても「いるだけでいい」。
そう思うと、人が生きている/生きたということは、かなり大きな存在感。
ただ「いるだけでいい」それだけなのだから。