考えることを途中で止めると、違う結果が見えてくる

水を使ったらハンドクリームを塗る。これを忘れないようにと繰り返していたら、サクランボの香りつきの手になった。もしかして、おやついらずになれる?……と思ったけれどチョコビスケットをかじってしまった。

前までだったら、おやついらずになれると思ったけれど、チョコビスケットをかじってしまった。なんて意志の弱い私なんだろうとへこんでた。今日は、まあいいか、そんなときもあるよね。で終わり。だって、ビスケットはおいしかったのだから。

ものごとを白か黒か。1か0か。在りか無しか。とても極端にみる癖が強かったけれど、少しずつあいまいにうけとめられるようになってたことに気づいた今日。

自分を責める理由なんて、ほんとうにたくさんみつけられる。自動運転のままで、するっと自分を責めるまで考えることをやめられないから、気づいた時には気分がへこんでしまっていた。

それがどうだろう。

気持ちをかたまりではなく段階によって細切れにするようになってきたら、以前ほど、落ち込むことは無くなってきた。あれはあれ、これはこれ。それはそれとして……みたいに分けてしまって、考えることを途中で止める。気もちが落ち込む前に他の感情をくっつけてみられるようになった(気がする)。

今回のチョコビスケットをかじってしまった件については、これくらいのことが瞬時に、頭の中を駆け巡る。

手がサクランボのいい香り ⇒おやつ食べた時のように香りで満足 ⇒でも口でも甘い感じを味わいたい ⇒チョコビスケットをかじろう ⇒ビスケットをかじった ⇒おいしかった ⇒食べてしまった。 ⇒残念な私 で、落ち込む。

この全てが自動運転で行われているから、わたしが把握できていたのは「チョコビスケットをかじって残念な私」の部分だけだった。

でも、よくながめてみたら。サクランボの香りで満足していたし、ビスケットはおいしかったし。それはそれで、よかったのでは?

ああ、おいしかったな。で考えること感じることを止めてしまえばいい。

だから、落ち込んだわたしは自動操縦だった思考をやり直す。

「手がサクランボのいい香りだったし、ビスケットをかじっておいしかったし。満足まんぞく」

これで、満足。たのしかったし、おいしかったし。もっとお気楽に過ごしていける。

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いつも、つい。やり過ぎてしまう。過剰に、多めにやり過ぎてしまう。でも、これは自動操縦になってあたまをぱたぱたと駆け抜けていく早さが、まわりより早すぎてしまうからだ。同じ時間かけても、おもしろいくらいたくさんの思考がかけめぐる。しかも、落ち込む答えにたどり着くまで、思考が止まらない性質を持っている。

考えることも、やりすぎる。世話好きも、やりすぎる。落ち込むのも、やりすぎる。わざわざ自分が落ち込むような思考を作り出すまで、終われなくなる。

適度に考え、適度に世話好きを発揮し、適度に落ち込む。「適度に」を意識しようと、自分に言い聞かせる。落ち込むまで自動操縦で考えてしまったなら、その手前にあったはずの自分が心地よかった部分にまで戻ればいい。

なんども、考えをやり直してみれば「ちょうどいい」「適度」に止まれるときがくる。

つい自分を責める癖が軽くなっていくまでは、考えを心地よい場所にどれほど近く止まれるかを試すゲームをしてると思っている。電車を運転して停止線で止めるゲームをしているみたいに、心地よいラインを乗り越えたとか手前過ぎたとか、たのしめばいい。

チョコビスケットをかじってしまったけど、まあいいか。そう思えた今日は、心地よいラインにほぼ重なって止まれたのではないか。と、少しにんまりしている。

鼻先がぴたりと重なると、うっとり。
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