日常、意識もせず使っているものが突然、使えなくなった時。しみじみと、これまでの日常に感謝の気持ちを味わう。
この数日、目の調子がよろしくない。文字がにじんだり、ぶるぶると震えたりする。外や内側を眺めることはできるので、風景や絵は見ることができる。動画も見ることができる。けれど、モニターや本を読む時間が減ってくる。ぼんやりとタブレットをのぞき込み、読みたいページを音声で読み上げさせる。なんだか、もどかしい。本を読む速さも、うんと遅くなりなかなか続きが読めない。はやめに本を閉じる、思い通りに読めないことにイラッとする。
日常、何の気なしにつかってきた目。それが使いづらいだけで、これほど影響が出るとは驚きだ。
読むときだけでなく、書くときにも目は大活躍していたと気づく。目が文字を捕まえづらくなってから、ノートやメモを取る量が減った。ノートやメモが取れなくなると、頭の中が外に出しづらくなる。パソコンを立ち上げ、ものを書く時間も減った。妄想のままにあふれるお話が頭を圧迫して重くなる。なにかしらについて書くことで、自分の頭が軽くなっていた。頭を軽くするときにも目が活躍していたと、いまさらながら驚いた。
今日。久々に、少し目が回復。目に見える文字の震えも若干ましになった。すかさず、パソコンの前に座り、さっそく書き始めた。いつものような集中は感じられないけれど、書くことができ、頭が少し楽になった。
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それをしていると意識もせず、当たり前のようにやっていたことができなくなったとき。あらためて、日常の「当たり前」のすごさを実感する。そして、当たり前だったことをあらためて感謝する。
当たり前に思ってるけれど、当たり前でなくなった時に感謝を感じられる。それは、わたしにとっての母への気持ちと同じ。そばにいるとイラッとするし、お互いの期待や思い込みでしばられて苦しく思う。それでも、大切に思うし、ありがたいと感じている。大嫌いなのに大好きで、大好きなのに大嫌い。
大好きだと思うことが当たり前になりすぎ、そのこと自体は自分で見ることができない。そして、自分のおもう形の大好きを受け取ってもらえないと嘆く。その嘆きが大嫌いという感覚に化ける。自分のおもうままに受けとってもらえないことにいらだつ。前提としてもっている大好きの気持ちはお互いに受け取っているのに、お互いそれぞれに持っている大好きを自分が思うままに押し付けたくて苦しんでるだけ。
そうしたら、なんだか気が抜けた。大嫌いな分、大好きなんだ。だから、まあ、今のままでとりあえずいいか。いずれ、何かしら落ち着く形になる、それだけを信じておこう。
嫌だ、嫌いだ。と言ってる間は幸せの予感がある。そのうち、何の感情も動かなくなる。そうすれば、もうあきらかに遠い人になる。だから、感情が動くだけのエネルギーを母に対して持っていることに感謝したい。いつか、プラスのむきに感情のエネルギーは変換される。嫌いだと感じた分だけ、好きだと感じた時間があったことを思い出せる。それで、とりあえずいいことにしておこう。
文字が見えづらい、ものが書きにくいと言っている間はしあわせの予感の中にいる。まだ見えているし書きたいものがある。そのうち、何も見えなくなって書きたいとも思えなくなるかもしれない。だから、見えていても見えていなくても、見たい気持ちがあることを感謝しよう。
見えづらいと感じたからこそ、いつも見ていた景色が色濃くなる。何の気なく見ていたものに温度や感触がのって、感情が動く。身体がいつものように動いてくれることを感謝し、自分のことを大切に抱きしめることができる。