母と友人とよその人と私。それぞれの距離をバランスとって。

父の四十数回目の命日にあわせ、お墓参りをした。お盆でもお彼岸でもないときに墓参りをするのは久しぶり、母とふたりで墓参りをするのも久しぶり。そして、何より、母とふたりだけの時間を過ごすのも、かなり久しぶりになる。

母親はわたしにとっての鬼門だ。母の言葉に刺激され、わたしの内なる鬼が暴れはじめる。あたりまえのはずの会話も、微量の毒を含んでいるようで、少しずつ耐え難さがふくれあがってくる。自分がしびれてしまって、母の言うとおりにしか動けなくなりそうな怖さを感じる。

母とふたりでいると、わたしはとても疲れる。母から届く言葉にいらだち、怒りを自分の内側で昇華しようとやっきになる。怒りをさばくのに手いっぱいで、母の言葉を平穏に聞く側へと力が向きづらくなる。自分のもつ力をめいっぱい使って、母との対話を平穏に過ごそうとするから、息も絶え絶えになる。自分自身が消えてしまいそうで、息苦しくなる。

そうして2泊分の時間を母とふたりで過ごしたのち、今日の墓参りの日となった。父の墓参りをするミッションをとりあえずクリアした。母のこともそれなりに受け入れ、できるだけ平穏なままに母と向き合うことができた。自分自身をすりつぶして、疲弊しきる前にきょうを終えたことに、ほっとした。

父が亡くなってから子どもの私たち姉妹を育ててくれた母。母に対しての感謝は数限りなくなる。こころが、ぽっとあたたかくなる思い出もたくさん持っている。それなのに、そんな母を無条件に好きになれない。実家のある場の雰囲気をとても好ましく感じてはいるけれど、実家を心休まる場所や帰る場所として認識できない。そのことが、すこしつらく申し訳ない。

ひとりの女性として存在している母が、よその人であればもう少し気軽に接することができるかもしれない。それなのに、母親だというだけで濃密なかかわり求められる私はどうすればいいのだろう。嫌になりたくないのに、嫌になる。それなりの距離をもってつきあうことしかできない。そのことを心苦しく思う。

それに比べて、父や祖父のことは懐かしく慕わしい。祖父も父も、すでに亡くなっているからか、思い出すのはたのしかったり嬉しかったりすることだらけだ。母のことを心苦しく感じる反動で、父や祖父を大切に感じているのかもしれない。

そんなことを思いながら、墓の前でもういない父に話しかける。3歳のちびっこだったわたしも、もう、これだけ大きくなりました。数年前に同じ墓に入った祖父にもごあいさつをする。 近くの本堂からはお経が聞こえ、ぽつりぽつりと降る雨に線香の香りが混じる。その香りを感じて、ほっとする。

ぱらぱらと雨混じるなか墓参りを終えた

まだ、もうちょっとやれるかな。母に向き合えるかな。おだやかに優しく、自分のままで母と話ができるかな。

墓参りを終え、少し遠くまで歩き、道後公園の中で昼の弁当を食べた。市内電車に乗りなおし、たくさんの人が通る大街道に出る。大街道は松山城のふもとにある。

文化の日である今日は、城に向かう通りでイベントがされていてお祭りのような混雑。通り沿いにぽつぽつと白いテントが並ぶ。テントの下ではバザーがされていて、まるで学園祭のよう。食べ物やアクセサリ、みかんなどが売られている。揚げ物や焦げるソースのにおいのなか、元気のいい呼び込みの声が届いてくると祭り好きの血がうずく。母とふたりでふらふら人ごみを歩く。まつりのような空気に触れているうちに、母との間にあった重苦しくもどかしい感覚が少し抜けた。そのことに、ほっとした。

ほっとして夜を迎えたはずなのに、母のたのみを聞いて、家のようじを片付けるうちに重苦しい空気になりそうだ。母と話すときに自分に湧いてくるどろりとした感覚の内に何が起きているのか、それを理解したい。距離があるならやさしくなれるのに、近づいてみるといっこうにやさしくなれない私がいる。

母に対して申し訳なく感じつつも、無理だから仕方がないとあきらめている私。それでも、せっかく母親なのだから、もっと母に近づきたい気持ちもある。よその人よその女性だったら、このままの距離でもよかった気がするのに。母だとしたら、もっとわかりあいたいと思ってしまう。そして、自分で苦しくなる。

ヒイラギモクセイ(ヒイラギxギンモクセイ)のかおりが遠くまで広がる道後公園

3泊続けて母とふたりで過ごした実家での時間を終え、明日の夕方には、かねてから約束していた友人を案内して街を歩く。そして、思いがけず連絡取れた別の友人とお昼ごはん食べることにもなった。友人たちと話をしたなら、きっとわたしの母に向かう心根のこわばりはとけるだろう。もう少し穏やかに、母と向き合えるかもしれない。

母との距離、よその女性との距離、友人との距離。それらの距離はそれぞれにあって、絶妙なバランスで私のあいだに成り立っている。バランスがくるんとそれなりに保てているうちは、平穏な日常でいられるのに、どこかバランスが崩れただけで、距離が目まぐるしく調整に入って、なんとか平穏を取り戻そうとする。

母に対してやさしくあれるよう平穏でいられるように心根をリセットしよう。実家を離れるときには心穏やかなわたしのままで自宅へと帰りたい。

そして、友人たちとそれぞれに会えるときを楽しみに、今日を終える。おやすみなさい。

田村 洋子

”気配は答え。気配は本物。
気配を感じて、じぶんを生きる。”
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