誰かにとっての灯りでありたい(心を手当てするワークに思ったこと)

お弟子さんなセミナーの初日。講義のあいまに二人組で手当てをしあう実習時間があった。その時間はとてもあたたかで、心の波がゆらゆらと揺れながらおとなしく静まっていくような感覚になった。寄り添ってもらった人の手のあったかさと流れていた音楽の効果か。

自己嫌悪している自分の痛みをやわらかく解きほぐし、手当てする二人組でのイメージワークだった。ひとりがイスに座り、もうひとりがその背後に立つ。背中の側は潜在意識をあらわすという。潜在意識の側から手を添えて、胸元にある何かをあたためてゆるめる。背後に立った人は、イスに座る人の肩や肩甲骨の真ん中あたりに手を当てて、そっとエネルギーを整えていく。

ワークはおよそ3分間。そのあいだ、そっと目の前にいる人の背中に向き合って、肩や背中に手を当てる。手を当てたその人が心穏やかに過ごせますように、こころ穏やかにありますようにと願いながら、手を当てる。その間、師匠が選んだ曲が流れている。ゆったりとした旋律の中で、目の前の人の背中と向き合い、手を当て続け祈っていた時間。

はじめ、背中側に立つ人になった私は、ペアになってくれた相手のうしろに立つ。音楽を耳にしながら、肩や背中に手をあてる。心がほぐされますように、やわらかな心地でいられますようにと願う。手からあたたかな何かが出てくるような、ほっかりとする時間だった。

そして、ふたりの役割を交代した。イスに座ったわたしの後ろにペアの相手が立ち、肩や背中に手を当ててくれる。わたし自身の内にあるだろう自己嫌悪や自己攻撃でこわばった身体をほぐしてくれる。穏やかであたたかな気配が、手を当ててくれた人との間で循環する。そのとき、流れ始めた音楽は「悲しみの水辺」というスコットランド民謡だった。歌詞をふと思い出し、その言葉と旋律が、手のあたたかさと混じりあい、じんわりと身に染みてくる。

「悲しみの水辺」の歌詞は、ふたりで過ごす意味を問いかけてくるような内容だ。お互いに翼を持たないから、小舟で二人で漕ぎ出すと決める。ふたりで漕ぎだすけれど、二人の愛は時間とともに薄れてしまう。それでも、ふたりで小舟にのって川を渡っていこう。

The water is Wide (悲しみの水辺)動画

自分自身の自己嫌悪を手当てし、心をあたためてもらう間ずっと、「悲しみの水辺」の切ない旋律が耳に届く。おぼろに覚えていた、その歌詞がじわっと自分の内へと広がってくる。

(やぎりんさん(八木倫明さん)による訳詞がことば柔らかくて好き。訳詞全文はこちらをどうぞ)

偶然は、意味を持って現れると私は信じている。

だから、自分を解きほぐし、手当てをするワークで「悲しみの水辺」が聞こえてきたことにも、それなりの意味を感じる。

そこに意味があるのだとしたら、わたしの自己嫌悪は、何に向かっているのだろうか。

パートナーと二人。お互いにむきあいきれていないように感じる自分を責めているのだろうか。それとも、パートナーその人を選び続けて二人で在ることを納得していないのだろうか。

何を感じているのか明確にはわからないけれど、ワークで3分ほど手をあててもらったおかげで、心柔らかに自分の内へとなにかが溶け込んでいく心地がした。分離しかけていた自分が、また自分の中に戻ってきた感覚。

人の手の力は、なかなかにパワフル。手を当てただけで、エネルギーの様子を整えることができる、そしてこわばりを受け止めて、ほぐす力を持っている。暗がりの中で、ほわんと灯りがともったような温かさを感じる。

そして、ふと思う。わたしはもう少し。パートナーのことを意識して、大切に向き合ってみよう。もし、男女の愛が色あせて感じたとしても、他の色合いでふたりの色を見つけてみようか。

紅葉はじまる、赤と黄色が街灯に浮かび上がる

電車を降りて帰り道、「悲しみの水辺」をはなうたしながら、自宅へ戻る。何度もメロディを繰り返しながら、てくてくと空を眺めつつ帰っていく。

歩道の脇の色づいた木が街頭の中でぽっと光をもつ。その光を見て、自分も誰かにとっての灯りで在りたいと願った。手を当ててほっとしたときのように、誰かにとってほっとできる存在でありたい。向き合う人たちに対して、もう少し近くまで寄ってみようかと思った。

パートナーとも、もうちょっと、まじめに向き合ってみるかな。

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