好きな気持ちに目を向けて「~ねばならない」から離れる

考えすぎが続いてるのか、分析癖が顔を出したのか。いつものように「ちゃんとしなきゃ」が出たからか。いっこうに、書けない。書いては消してを何度も繰り返し、書きかけのまま、下書きの記事がたまっていく。

そんな様子が始まって、半月。更新が止まっていることが気持ち悪く感じられ、ようやく、新しく書き始めた。新しく書き始められたのは、書けない気持ちの裏側にあるものがみつけられたから。そこには「ちゃんとやらなきゃ」という心が詰まっていた。

役割がわたしは怖い。周りから貼られた役割のラベルによって、自分が自分でないものに変わってしまいそう。わたしは〇〇という人だと周りから思われて、周囲にいる人たちにも伝えられ、貼られた役割のラベルのように扱われて役割が決まる。社会のなかでの役割は、自分では決められないといった怖さを持っている。

けれど、自分自身で役割にしばりつけようとする力は、周りが私に貼るラベルよりずっと大きかった。そのことに改めて気がついた。

今、わたしは「カウンセラーらしくならなくては」と自分をしばろうとしている。カウンセラーとして、役立つ何かを書かなければならない。暮らしでほっとできるものを作らなければならない。そうやって、自分自身を追い込んでしばりつけていく。

〇〇しなければならない。

思ったよりも密やかに、根深く、自分自身をしばっている。そして、それがあまりにも日常のこと過ぎて、自分でじぶんをしばりつけてしまっていることに、なかなか気づけない。

~ねばならない。
文字にしてみたら、ゴキ〇リホイホイみたいな言葉にみえる。粘りが強くてべたべたと足元が貼り付けられる言葉。「ねばならない」を手放せば、足を貼り付けている気持ちも動き始まる。

動き始まるには、自分の好きとやりたい気持ちに着目するといい。ねばりついた足も、ひっぱられるようにして前に進む。そのうちに、動き続けることが楽になる。動きやすくなっていく。わたしは自分の形を考えたくて、きれいだったり楽しかったりしたこと、毎日の何かを書きたい。書きたい私が、たまたまカウンセラーをしているだけなんだ。

ブログを書けなくなってきた理由は、もうひとつあった。もうすぐ、百日ブログの約束のときが終わる。それが、さびしい。百日ブログチャレンジは、 100の記事を書くか、100日分のブログを更新するかで終わる。私は89日目を終えたところ、残りが10日ほどになった。この10日が終わることがさびしい。

さびしいということは、かなり楽しんでブログを書いてきてたということ。わたしは、楽しかったらしい。文字をとおして、誰かとつながっているその感覚。参加している人たちのブログを見て、コメントつけて、小さなコミュニティが確かにあった。それが楽しかった。

まだ、10日分残っているのに不思議な感じ。もう、今からさびしい。

さびしさもわかったことだし、自分を貼り付けていた「ねばならない」の正体も見たし。そろそろと、また毎日更新を始めます。

これからも、よろしくお願いします。

即位の礼の翌朝、はじまりの朝に。

「はじまり」を改めて祈るようなここちするのは、 沖縄の海岸で日の出を見た時のよう
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