この夏、かなりの回数はいていた靴をメンテナンスに出していた。靴底をはりなおしてもらって、持ち帰り、あらためて靴を磨く。あすには、箱にいれて靴箱の奥にしまう予定だ。
お彼岸を終えて、もうじき10月となる今日は、大切だった人の命日。短い時間だけ一緒だった人。幸い、一緒に居られた短い時間を、懐かしく思えるくらいになった。
悲しい出来事を、無理にポジティブに変える必要はない。自分自身が生きてさえいれば、いずれ悲しさは溶けていく。溶けていくその時まで、そっと、心のどこかに置いておけばいい。心の用意が整えられたそのときに、悲しさは自然と溶けていく。
亡くしたその時、すぐに悲しいとは感じられないかもしれない。自分も半年以上たって、1年2年と過ぎるにつれて、いろいろな色合いをした悲しさを感じてきた。悲しさの色合いも悲しさの量も、自分が相手をどう思っていたかを思い知る手掛かりになる。
悲しかったこと、 嬉しかったこと喜んだこと、気もちの全て。その人と過ごしたときは宝物のような時間だった。
大切だった人を思う時間は、細かな部分が少しずつ崩れてきて、不確かな形になってきた。自分そのものとして身体にとりこまれた細胞のよう。そろそろ、自分の内側の奥深くに、その細胞を大切にしまってもいいかもしれない。
宝物のような細胞は、自分の内側で私そのものとまじりあって、しっとりと生きている。その感覚をたどりながら、きょうはしんみりと過ごした。
もう夏が終わった。秋が来た。