うっかりと、詰め込み過ぎる癖を持っている。それも、きっちりびっちり隙間なく詰め込む。
詰め込み過ぎるという癖は、荷物を運ぶとき、小さくまとめて持っていけるから便利ではある。けれども予定に関しての詰め込み過ぎは、どうも都合がよろしくない。集中が続きすぎると、身体や心が休み方を忘れてしまう。そして、体力や気力がからっぽになるまで走り続けてしまう。
詰め込み過ぎるのは、絞り込むのが得意ではない上に好奇心はたっぷりともっていることも関係している。いろいろと手を出すから、気づくと身動きが取れないほど予定が詰まっていく。
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初めて過労を診断された中学生の頃も、楽しいことを詰め込み過ぎて倒れた。体がしびれてきてしまい、本やコップが手から滑り落ちるようになっていた。診断結果は、過労による帯状疱疹(たいじょうほうしん)。胴体の部分に水泡がぶつぶつとでき、膿が抜けた跡が深くて大きな穴になっていた。そこから炎症が広がって、神経をさわって身体がしびれていたらしい。
「このしびれも水泡も、頭痛も。すべて、過労が原因だと思いますよ。もう少し、部活動を控えるとか。やりたいことをしぼらないと。なかなか、中学生で過労の診断はないですから」と病院であきれられた。
当時、部活動に熱中していた。正規部員だった合唱部の練習に出て、大会間近の陸上部では長距離走を掛け持ち練習。委員会活動にも週2で顔を出し、文芸部で作る冊子用の原稿は持ち帰って書く。勉強そっちのけで、部活三昧。しかも、その合間に読みたい本を月20冊のペースで読んでいる。……今、書いてみてめまいがした、びっちりと詰め込み過ぎの予定達。
そのどれもが私にとって大切に思える。どれをやめていいのかわからない。
自分でしぼりこむことはできなかったけれど、3か月の間に自然とやることは減っていった。陸上の大会が終わり、委員会は任期を終え、文芸部の冊子発行も無事に終わり。本を読む量も、手のしびれがあるため勝手に減った。やることが減れば休む時間も増えた。しびれが身体からとれるまで中学生の私で半年近くかかった。
そこから、気をつけて休もうとするようにはなった。休もうとはおもっているけれど、好奇心にふりまわされ、気づくと両手いっぱいにやりたいことを抱えているような状態は今も続く。
だから、時々、思い出したように「たのしさ」を間引く。たのしさの種類が減れば、集中する事柄も減るだろう。減った分は休むようになるかもしれない。
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詰め込み過ぎが得意ならば、「休憩」や「休日」をスケジュールに詰めておけばいい。
そのことを、ようやく思いついた。なにもしないぼーっと過ごす休日。予定を入れない休日をスケジュールに入れる。 ぼーっとする休日をがんばるのだ。
ぼんやり、ぼけーっと。空ばかり眺めててもいい。イヤーマフ使用で外の音をやわらげて、ぼんやりと皮膚をくすぐる風を感じてるのも好きだ。 ひたすら、ぼーっとを詰め込んだ時間をもつ。自分が後でがっかりするくらい何もしない時間をスケジュールに確保する。
そして、行動するときは自分の時間の使い方を考える。自分がこの先、笑顔ではなうたに暮らすために、時間をつかおう。 余白の時間と休憩・休日の時間は、別のものだ。 そのことを覚えておこう。
やめたり絞り込むのが得意でない私。何かをやめるときは、それなりに大きな理由を自分の中に持っている。やめたことで出来た余白を、他のことに使いたくなっていることが多い。あらためて出来た余白に物事を入れるときは「どうして、そうしようと思ったか」と自分に問いかけ確認しよう。
……と決めたのに、きょうもうっかり増やして、ぎゅうぎゅうに予定を詰め込むところだった。せっかく減らした書く場を、新しくはじめて増やそうとしてしまう。
書く場を減らしたのは、もっと本を読んだり人と会うゆとりを持ちたかったから。
書く場を新しくはじめようとしたのは、人とつながる場を増やせるかもしれないと思ったから。
さて。人とつながる場は新しく作る必要はあるのだろうか。今あるものだけで十分にできそうだ。そうすれば、作ったゆとりをつかって休みもできるし本なども読める。余裕はあるほうが、心地よくいられる。
びっちり詰め込む癖は、まだまだあるから。「休む」も一緒に詰め込んで、余白を持っておこう。創り出した余白は、余白のままにとっておくか、新しく予定を入れるか。しっかりと、自分なりに考えて時間を使おう(と言い聞かせる日々)。
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