ブルーベリーは、しあわせな味がする。
祖母がブルーベリーを好きだった。生のまま、果物として売っているのを見たことがなかったけれど、赤紫にとろりと光るブルーベリーのジャムを「本物のジャムだ」と言って好んで食べていた。 ブルーベリーの形も残っていて、余分な香りをつけていない。果実を長くたのしいままに食べたくて作られたであろうジャムだから、本物のジャム。
祖母がいうところの本物のジャムは、街の百貨店でしか取り扱いがなく、祖父が街へ出るときに「食べたいな」とリクエストしていたのを覚えている。
「これはおばあちゃんのために、じいちゃんが買ってきたジャムだから。ちょぴっとだけよ」
幼かったわたしが食べていいのは、祖母がスプーンに少しだけ残してくれた紫のソース。ジャムの瓶にスプーンを入れて、小さな器にとりわけた後、スプーンに残った濃い紫のブルーベリージャムのソース。 口にするとブルーベリーのかおりと、ジャムの甘味。 きらきらと赤紫に透明で、甘くて酸っぱい感じが口に残る。いつもは厳しい祖母が、スプーンをわたしの口に添えてくれるその動作も込みで、そのソースをなめさせてもらえることが大好きだった。懐かしいしあわせの味。
友人が企画してくれたブルーベリー狩りに行ってきた。そこに集まったのはライフワークを生きる勉強会や心理学系のセミナーで知り合った友人たち。お互いに他人なのだけれど、どこか仲のよい親戚のような感じがする、不思議な関係の友人たちだ。
前日まで荒れていたという天気は、皆で集まった昼頃にはすっきりと晴れた。少し日差しは強いけれど、吹いてくるのは秋の風。涼しく、心地よい空気の中に、ブルーベリーを摘み取る友人たちの笑い声やはなしをしている声が聞こえる。
それぞれのペースで、思い思いにブルーベリーを詰めながら、聞こえてくる笑い声やブルーベリーの木の間から見える友人の様子を見て、顔がゆるんでしまう。にんまりする。
果樹園で作られたブルーベリーは、小粒のぶどうのように食べる部分がたっぷりとついている。野生にもどったブルーベリーとは異なる、みずみずしさと甘さとすっぱさと。摘み取る途中に、味見をしてにんまりする。味見をしている友人と味見をしようとするわたしとで、ふと目が合って笑いあう。
ブルーベリーの果樹園で過ごした後は、レストランに移動してランチ。
とろみがついているほどに濃く重いブルーベリーのジュースをのみながら、ランチを食べた。すべてがブルーベリー尽くし。おいしいって、しあわせ。
ランチの後は、たくさんの「おめでとう」と拍手を送っていった。8月9月に誕生日を迎える友人たちひとりひとりに「おめでとう」。結婚記念日を迎えた二組の夫婦にも「おめでとう」。今年、結婚した友人にも「おめでとう」。
たくさんの「おめでとう」が重なっていくにつれて、じぶんの内側にも「おめでとう」のよろこびが重なっていく。しあわせの種がたのしさのエネルギーと一緒に蓄えられていく。
みなが楽しそうに過ごしているのを眺めながら、とてもいい笑顔になっていたのが今回の集まりを企画した友人。その場をとてもいとおしそうに、たのしそうに眺めながら時間を過ごしている。この友人は、とっても人が好きなんだ。そのこと、よくわかって、またわたしもたのしくなる。
同じ場所にいて同じ風景を見ているけれど、感じ方が違っている。それをおたがいに笑いながら受け入れて、世界を見る。 そうして、それぞれの思いから楽しくなったり嬉しくなったりしていくお互いの姿を見る。お互いが楽しんでいる姿を見ることで、さらに楽しさや嬉しさは重なる。
重なり合う楽しさと嬉しさは、ごろごろとふくらんでゆき、しあわせな場を作る。 それを感じられる場にいることも、おもしろく、しあわせなここち。
やはり、ブルーベリーは、しあわせな味がする。今日の楽しさも重なって、しあわせの味が濃縮された。
笑って、顔がゆるんで。身体も力抜けて。どうしようもないほどに、あたたかな幸せな思いが心に残った一日だった。