「口に食べられる」は沖縄のオバァのことば。
「口にしたことは、本当になるのだから。悪いことは、口から外に出さない方がいい」
沖縄の、とある路地裏で。
なにをするでもなく、ぼんやりと座り込んでいたとき。通りすがりの方にいただいた本。
そこに書いてあったことばのひとつが「口に食べられる(くちくぇー くわーらりーんどー)」だ。
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「口は災い(わざわい)のもと」のことわざを思い出した。
(口は災いのもと:口から不用意に出したことばや余計なひとことで思いがけない災いをまねく、の意味)
本をもらったその時のわたしが感じていた口の災いは、 ことばを口にした分だけ、誤解がひろがり、ますます状況が悪くなるということ。
自分がいたチームが仕事の区切りで解散し、ほかのチームに作り替わったばかりだった 17年前。
やり方の違う者が集まる新しいチームの中で、お互いの正しさの証明が始まりチーム内の感情がこじれた。
小さなはずのボタンの掛け違いが、何を言っても悪い風にしかまわらなくなっていた。
そうなってくると、状況に合わせてことばを選ぼうとするのだけれど、ことばがでない。
ことばを出しても、それがうまく伝わらない(気がする)。
……そのうち、わたしの声が全く出なくなった。
声が出ない理由は、病院に行ってもわからず。
「ゆっくり休んでください。気分転換に海を見るのもいいですね」といわれるまま、思い立って沖縄へ行った。
そして、路地裏でぼんやりしていて本をもらった。
もらったから、お礼を言って本を読んだ。「口に食べられるよ」のページを見た。
ひと言口に出したことは本当になってしまうことがあるから、人をひどく傷つける言葉を吐いたり、悲観的な思いを口に出したりしては絶対いけない、
口に食べられるよ,沖縄オバァ列伝「オバァの人生指南」p116
わたしの声が出なくなったのも、口に食べられたからだろうか?
口にすることば達が、悪いことばになってしまってるから、声が出なくなったのだろうか。
今、口にすることば達が悲観的にしかならないから、これ以上、状況を悪くしないために声が奪われたのだろうか。
声が出なければ、悪い言葉を口にすることはできない。
もう、今のような話し方はやめよう、と見えない何かが伝えてくれてるのだろうか。
「わたしは悪くない」から、出した言葉も常識的で間違っていない。そう思っている。
それでも、声が出なくなるくらい。何かがわたしを止めようとしている。止めようと思うくらい、今のことばはよくないのかもしれない。
そうだとしたら、わたしは何を変えればいいんだろう?
何をやっても届かない。
居場所のない感じ、日本語なのにお互いのことばが届かない息苦しさ。
とりあえず、それは見ないことにして。
自分の何かを変えようと思った。
変えようと思っても、どう変えればいいかもわからない。
わたしは、どこかで、何かを育ち間違ったのかもしれない。じぶんを自分で育てなおしてみようと思った。
ゆっくり、海をながめて。時計のない暮らしをしたおかげなのか、しばらくして声が戻った。
「口に食べられないように」。できるだけ良いこと、前向きなことを見つけようとした。
ことばが前向きになった分、まわりとぶつかってしまうことは減り、落ち込む機会も少し減った。
あたらしいチームでの仕事も、それなりに日常を取り戻した。
あの時。
「口に食べられるよ」をみつけたおかげで、前向きなことをみつけようとする視線を思いだした。
本を受け取ったから、その言葉にあえた。
本当の意味は違う意味だけど、わたしの中に新しい意味ができあがった。そして、その時のわたしを励ましてくれた。
言葉を変えて人とのかかわりが変わり始めたあの時にうかんだ、ほっとできる小さな光をみつけたような感覚を、今も思い出すことがある。
人とのかかわりが変わり始めたことに励まされ、もう少し前向きなことばを使ってみようと思った。
前向きなことばを探して、手元の手帳に文字で書く。
書くことで、じぶんを励ます。じぶんを確認してみつけなおす。
その作業は、今も続いている。