知らないから、うまくいく

じぶん探求の一環で、コーチングを受けている。

もともと。じぶん探求が好きなわたし。
悩みすぎ、考えすぎ。と言われるくらい掘り進めて考える。
それは、自分そのものの存在を不確かなものだと感じているから(「解離」という現実逃避能力(?)が病的に強く記憶の連続に自信がない)。 自分の軸がどこにあるかを確実にはわかりきれていないと思っているから。

コーチングは、対話を通して自分のうちにもっている考えや思いを意識の表面に浮かび上がらせる。こころの奥で、それと知らずに持っていた気持ちが、意識の表に上がってくる。 じぶんが感じている問題やどうしてもひかかってくる考えについて分解したり眺めたりする視点を、外から見てもらっている。

「本当にそうなの?」繰り返して自分に問いかけることで、意識しているモノコトのあいまいさが見えてくる。あいまいであると知ることになれば、どこから手を付けたらいいか。そのほぐし方が見えてくる。

自分でじぶんに問いかけるのは、自分のなかだけでやってみることができる。ノートなどに書き出して、みつけだすこともできる。
けれど、自分がじぶんと対話するときは、目線が自分のなかで終わることもあって矛盾に気が付かないことがある。答えづらい内容が、なかなか外へ出てこないこともある。

コーチングを受けているときに問いかけてくれるのはコーチ(コーチングの提供者。対話の相手)だ。
自分がじぶんと対話するときとは、また違った緊張感が生まれる。なんとかして感覚をことばにしたいという意欲が、ぎりぎりまで働く。じぶんでない他の人に向けて自分を見せていくところから、見えてくるものがある。そのあたりは、カウンセリングにも似ているかもしれない。

これまでは、自分に比較的近しい方からコーチングを受けてきてたのだけれど、今回は別口。日常でかかわることのない位置にいるコーチの方に手助けをお願いした。

知り合いや関係者?のカウンセリングやコーチングを受けてみるとき。どうしても、わたしは自分のことに向き合いきれなくなってしまう。

知り合いや関係者が自分をどうみているのか。自分がどうみえているのか。
そのことを気にしすぎて、回答が迷路にはまる。外面を気にした不思議な回答を知らずしてしまう。そして、たどりつきたい回答へに向くことができず、どこか的外れな、もわっとした答えになっていく。

みつめたい事柄から目をそらす理由を、たくさん作り上げて。向き合えなくしてしまう。

よくあるのは「その質問、知ってる」「また来たか」と知ったようなつもりになること。
目の前にいる人に自分がどう映るかを気にしすぎて、自分の読みときが雑になってしまう。

そうなると考えが投げやりになるというか、途中であきらめてしまうというか。とにかく、こころの奥の底にまでたどりつけず、ええかっこしいな自分が表に浮かんでくる。核心にたどりつけず、あとでぞわぞわと落ち着かない気分を味わう。

「知らない」つもりで、自分にむきあう。「初めて」のつもりで取り組む。
その緊張感があるから見えるものがある。知らないから、うまくいく。

初心にもどる。とはよくいったものだ。

知らない。と知っているから、深く聞こうとする。より考えてみたいと思う。そして、考える。

初めて聞くかのように、向き合うから見える景色がある。初心に帰って。あらためて、自分を見つめなおす。
そして、少しずつ。いろいろな角度からじぶんの存在を自覚していく。

じぶんの存在を自覚できれば、解離をおこしてふらりとあいまいな自分になってしまったと感じても、平常運転な自分へと戻りやすくなる。

じぶんの存在を知っていれば、じぶん軸の存在確率も高くなる。より精度よく自分自身を生きていられる。

ぱきっと、くっきり。形を知りたい
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