ことばにするのが「難しい」とおもっても書いてみる

思うことを、感じたことを。ただ、そのままに書くこと(ことばにすること)が「難しい」と感じています。

思うことをそのままに書くことが「難しい」のは、内に在るものをことばにしていく過程で抜け落ちていくモノがあることと、外へ向けて「格好つけておきたい」というわたしのこころがあることが理由です。

ことばにするのが「難しい」とおもう理由

ことばにする途中で抜け落ちていくモノがあること

内にあふれる感覚や感じをことばに置き換えていく途中で、いろいろなエネルギーがどんどんと抜け出していく。

ことばになって残るのは、内にあふれた感覚や感じの表面をなぞったもの。
きわめて自分の内に在ったものに近いものではあるけれど、どこか色の薄れたもの。

色が薄れたと感じているのは、内にあふれた感覚を表現するために一歩ひいてながめているから。

ひいて眺めることをせず、内にあふれる物のままをことばにしていったとしても「伝える」ことにはならないと感じてるから。

「ことば」は、自分と自分でない人の間をつないでいけるだけのおおまかな意味合いをもっている。けれども、まったく同じ意味を持った「ことば」にはならない。

それでも、何かを伝えたくて。内にあふれた感覚をことばに置き換えていっている。

格好をつけておきたいわたしが気になってしまうこと

ことばにしていく途中、「格好つけたい」と思うわたしがことばの中に混ざりこむ。外にみえるじぶんの姿をとりつくろうような、「こんなふうにみてもらいたい」という気持ちが混じってくる。

そうすると、「ここを見て」と外の人に見られても大丈夫な部分だけをとりつくろって、飾り立てたようなことばになってくる。

そうなると、はじめに湧いた感覚をあらわしているモノは半分くらいに目減りしてくる。目減りしたと感じたとたん、ことばが出てこなくなる。ことばに詰まってしまうのです。

難しいと思っていても、ことばに残しておきたくて。

内にあふれる感覚の表面をなぞっただけになってしまったとしても、つい格好つけてしまったわたししか出てこられなくても。それでも、なにかをことばにしておきたくて、書いておくのが好きなのです。

ことばを「今」のわたしを支えるために残す

わたしが今、日々くりかえしていることは、いまのわたしにとっての日常。
日常は繰り返されるたびに変質し、ほかの形へとごくわずかに変わっていく。

日常は少しずつ変化してゆき、ときが経つともうほかの日常のかたちになっている。日々の違いはごくわずかでも、ひと月、一年とたってみるとずいぶんと違う形に出来上がっている。

なにかの形になりたくて変化してきたじぶんの姿を後でながめることができるのは、そのときの「今」のわたしを支えることになる。

ただいま、現在としての「今」ではなく、じぶんの足跡を確認したくなったそのときの「今」。

だれでもない、じぶん自身が「今」を支えてくれる感覚は、ほかの方からもらう応援とはまた違うここちをじぶんに与えてくれます。

ことばで現在を知り未来へとつなぐ

内に在るものをことばにかえていくことで「ああ、こんなこと考えてたんだ」とあらためて自分をみつめることにもなる。自分をみつめる目があることは、これからのわたしや未来のわたしを導くものを積みあがていけることにつながる。

内に在るものだから、と知っているつもりでも、じぶん自身のことはなかなか知ることができない。

わたし自身がわたしを知るためにことばをおいておく。
ことばに変えて、改めて自分をながめてみることで。少しずつ、向かいたい方向が見えてくる。

ことばにしておくとお役立ちになることもある

書くことが好きだと思っていても、ことばにすることをこんなに迷ったり、難しいと感じる。
それでも書いてみるのは、お役立ち情報になることがあるから。

ヒトの想いの大枠の形は、それほど変わらないと思うのです。育った環境や今置かれている環境が変わったとしても、どこか、一部でも似ているものがある。

だから、迷って表面の形だけになっていたかもしれない言葉であっても、迷いの部分も含めて。だれかの欲しいものになっている可能性がある。内にのこしてあるままでは、そのものを取り出してみてもらうこともできない。

そう信じているから「なんだか、わたしはへっぽこだな」と思いながらも、今日もせっせと書いています。

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