他人の価値観を自分ごとにして生きてきた時間が長く、この数年、ようやく自分軸な世界へ戻ってきた。 今は他人のことを考えている周期から、自分を考える周期へと振り切ったみたい。 何事にも極端に走りがちな私、今はなかなか、他人のことに意識が向かいづらい。そのせいなのか「友人」の定義を考えこむこともある。
先日、初めての顔合わせの機会にも、私は自分のことで頭いっぱい。のど元に心臓がのびあがっているようで、呼吸も浅く、緊張のしどおしだ。
ブログ仲間さんのおひとりに声をかけてもらい、文字だけでしか知らなかったブログ仲間さんたちと実際に会いなおした。
これまで、名前と顔と、日常などを書いてきている文章や言葉と。全てばらばらのまま、私の中へと現れていた人たち。文字だけでしか知らなかった人たちと顔を合わせる。声をかけて、お互いの顔と言葉とを記憶の中で結びつけていく。
そして、顔をみて改めてあいさつをしあった。ブログでの名前の表記がローマ字な人も、ニックネームで書いている人も、目と鼻と口がついていて(失礼、申し訳ない)、呼吸し生きている人間だった。肉体があって、どこかで暮らしていて、ブログを書いていたその人が、目の前にいる不思議。
ブログなどでみてきた言葉から受けた印象と、声やふるまいからうける印象とは、ある程度は似てくるから、そのこともおもしろい。
言葉にはエネルギーがのる。ものを書くときの心の様子が、言葉遣いなどにものってくるから、書くときの意識も気をつけてるようにいわれる。けれども、書くときのエネルギーだけでなく、その人そのものが言葉に乗っているように感じる。
そのお陰か、言葉や文字だけでも会っている気持ちは育つ。直接に知り合ってきた人と比べて、お互いの話題はないけれど、不思議なくらい安心感がある。
今回、初めて顔を見合わせ、声に出してはじめましてとあいさつをした。すると、久しぶりの友人に会うように心うきたつ。ずっと、知ってきた人であるかのように、お互いの距離をもつことができる。
だとしたら、私がまだ出会っていない誰かのところで、私はその人にとって友人(仮)になっているかもしれない。今、わたしが書いているものたちを読んでくれた人のところで、私は友人に準ずる存在に近づいている。
読んでくれる人たち、みんなが友人(仮)なのか。おもしろいな。
そんな友人(仮)たちと出会えるように。初めましてをごあいさつできるように。
できることから、できるようにはじめる。