今ここに、感情があると覚える

感情がうっすらしかわいてこない。
感情は自分から切り離された場所にあり、じぶんのいる奥へ届くまでに少し時間がかかる。

時間をかけてしみ出てきた感情は、もう、外に出るタイミングをはずしている。 その感情を共有したかった相手は、もう目の前には居ない。

数か月も前のこと、突然話題に出しても相手は困るだろうな。
相手に伝えたかった気持ちは、渡し忘れたプレゼントのようにこころのどこかに溜まっていく。ようやくつかみとったじぶんの感情だけが手元に残る。

いつもは、そんな風に。なかなかつかみ取れないわたしの感情も、何かのきっかけであふれ出ることもある。
まったく今はその時ではないのに、関係ない(ように思われる)場面で、突然にもりもりとあふれ出てくる。

ひとつ出てきたら、またひとつ。もうひとつ。次々と感情がふくれながらあふれてくる。
手品師が万国旗を何もない場所から、次々と繰り出して見せるみたいに。

そうなると、もう終わりだ。

本当に見せたかったのは、ふくれあがるたくさんの感情ではない。ただ、ひとつか、ちょっぴりの様子だけだったはず。

本当に見せたいのは、目の前にいるその人ではない。以前みせたくて見せられなかった、あの人に見せたいのだ。

それなのに、自分では見せようとも思っていない相手に、次々と。相手にとってはどうでもいい強い感情をあびせかけ、押し付けて。その結果、関係が全て壊れてしまう。

そうしている自分の姿を、ガラス越しに見てうんざりする。

じぶんが自分でみてうんざりとするのだから、他の人はもっとうんざりとしてるだろう。
そう思うと、もうその場にはいられない。

これまで作った人間関係も、これまで作ろうとしてきた人づきあいも。何もかもがどうでもよくなってきて、わたしは姿を隠す。

自分が意識してない間に、何度も何度もそんなことが起こっている。
自分を消してしまいたい。と思って姿を隠し、解離体質のおかげ?で姿を隠すことに成功してしまうのだ。精神的な意味で。

ちょこちょことした小さなことで起きた解離は、自分のかたち、記憶、いろいろなものを自分自身から切り離してしまう。自分の一部をびん詰めにして倉庫の奥に隠し、隠したことすら自分で忘れてしまうことに似ている。

はじめのうちは、感情が強くなったときに受け入れたくないものを、じぶんで切り離し、びん詰めをしていた。それが、いつのまにか自動化されてしまい、強い感情のすべてがびん詰めにされていく。強い感情が自動的に切り離されていくうちに、わたし本体の今ある感情が感じられなくなってしまった。

いまは、自動的に動いてしまう感情のびん詰システムを止める練習中。
今、わたしは何を感じているのかな。と、観察しているところだ。

からだの中で、なにかの感覚が動く。
動いた感覚が、なにかの感情につながっている。そのはずだけれど、その感情の色合いを突き止めているところだ。

大きくても小さくても。なにか起きれば、自分のなかで思うところはある。
思うところがあるときには、感情もうかんでいる。
その感情の部分だけを育てなおしている途中のように感じている。

—–

今、じぶんが何を感じているのか。
今、じぶんの内側でどんな感覚が動いているのか。
観察する目を持ちつつ、ふと、浮かんでくる感じを大切にみつめる。

浮かんでいる感じをキャッチして「感情だ」と理解する手順を、健全なひとは自動的にできている。でも、わたしは感情だと理解する前に、びん詰めにして隠そうとする癖がある。

だから、覚えておこう。
感情はどこか遠くではなく、今ここにあるということを。

そして、何度もじぶんに確認をする。

今、わたしは何を感じていますか? 何を思っていますか?

ふと浮かんだ感じをまずは大切に味わって。感情という色合いや言葉に変えていこう。

そうすれば、もっと。じぶんの日常が色づいていく。おいしくごはんが食べられるように思う。

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