前職で災害からの復旧を支える仕事をしていた。会社員になって初めての仕事は、河川にかかる橋の安全確認調査だった。洪水によって壊された道路を復旧するために、橋とそのまわりの様子を確認し記録する調査。昼間、明るいうちに歩き回って調べたものを、夜のうちに図面に書き起こし資料にして提出する。それを1週間続けたように覚えている。
先日、台風が通り過ぎ。自宅の辺りは日常を取り戻した。日常を取り戻そうと、仕事に取り掛かっている前職の後輩から、ぽつりぽつりとメールが届きはじめた。近況や消息のお知らせに続いて、私が以前に関わっていた仕事についての問い合わせてくる。昔あつめたデータが役立つかもしれないのは嬉しいけれど、10年近くたった資料はもう古くなっているはず。そのことを少し心配する。
そして、そんな心配をした自分を笑う。私は2年前に職を離れたけれど、後輩は現役の技術者で。今の知見を知っていて、資料を検討できるだけの経験も知識もある。そのうえで、何かほかの視点を確認しようと連絡をしてきたはず。現役な技術者として現場に出ている後輩を、そっと応援しよう。連絡をもらえたことを喜ぼう。
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感情をもつ自分と考えて判断する自分をきりわけて、冷静になってモノコトをみることで、何かしらの答えにたどり着きやすい。
自分自身の感情を、考える力から分離させることが技術者であり続けるための条件だと思ってきた。学生の頃に指導を受けた先生からは、「大きな場所から全体を眺めるには、人間的な感覚を切り離すといい。考えるための視点を見つけるまでは人間であり、考えはじめてからは事実を科学的に思考するように」いわれた。感情を切り離すことには、それなりに成功した。けれど、事実を科学的に思考するのは、どうも苦手だ。途中で自分の願いや妄想が入ってくる。
そして、技術者をやめて、普通に。自分自身として日常を送ることになった。それからも、まだ感情を切り離す癖は残ったままだ。
感情を切り離している自覚があるうちは、まだ戻るべき場所を覚えている。けれど、無意識のうちに感情を切り離したなら、自分自身はどこへいったかと迷う。
もう技術者ではない。日常を生きて自分自身でありつづけたのでいい。それなのに、感情を切り離す癖だけが根強く残っている。そろそろ、感情をそのままに感じてもいいはず。
感情はどこにあるのだろう?
日常は感情をそのまま感じているはずなのに、振り返ってみると感情がないように思える。あるべき反応を探ってしまう機会も多い。
自分でするっと感情を受け止めて、より自分のままで日々過ごしていこう。