姪は生のブルーベリーが好物だ。せっかくおいしいブルーベリーを摘んだのだからと、友人たちと摘み取ってきたブルーベリーと祖母の好物だったジャムをおみやげに 妹家族の住む福岡に来ている。
福岡に来たときは、農協系列のスーパーマーケットまで朝いちばんのお魚を買いに行く。そして、そのお魚でおかずをあれこれと作って食べてもらうのが、妹家族との恒例となっている。今回は、 スーパーマーケットに近いケーキ屋でカスタードパイも買って帰ろう。 おいしい生のブルーベリーを持ってきたから、カスタードパイにブルーベリーを一緒に挟んで豪華なパイにしよう。
いつも、通っていたスーパーまでの道だから。地図をしっかりと確認することなく、車で30分ほどのスーパーへと向かう。甥や姪が小さいころは妹の運転で、そのスーパーへよく通っていた。この最近は妹の夫さんがスーパーまで出かけてお魚を買ってきてくれていた。
今回は久しぶりに、妹の運転でふたり、以前、通っていたスーパーへ向かった。
久しぶりに通る道路の周辺は、ずいぶんと景色が変わっていた。 マンションが建ち、道路がひろがり、まわりは田んぼだけだった大型スーパーは、家の波にのまれていた。それでも、通いなれたはずの道。スーパーへどんどんと向かう。 妹と二人、目印に覚えていたお店を道路沿いに見つけた。その角を曲がって細い道に入れば目の前が目指すスーパーだ。
大きな道を曲がった。すると、いつものスーパーが目の前に……? ない!!
いつもの角を曲がったのに、いつものスーパーがない。けれど、3か月前に福岡へ来たとき、夫さんがお魚をそのスーパーで買ってきてくれたはず。どこか他の場所へ移転したのだろうか。あわてて、地図を調べる。現在地を確認する。
地図によると、目指すスーパーはまだ先だった。それなのに、曲がり角の目印にしていたはずのお店は、そこにある。化かされたような気分になりながら、スーパーを目指す。
「スーパーへ行くとき、あのお店にいつも立ち寄ってたはずなのに。おかしいね」
地図がおしえてくれたとおり、その先にいつものスーパーがあった。ほっとしながら、いつものようにお魚を買った。近くにあるケーキ屋さんに行き、カスタードパイを買った。
妹宅にもどり、カスタードパイを出しておやつにした。おみやげにしていた生のブルーベリーを、カスタードパイの中に詰め込んで。さらにブルーベリーを数粒添えた、ぜいたくなおやつプレート。
おやつを食べながら、妹と記憶あわせをしてみた。スーパーへ行くために目印にしていたお店は、確かに、あの角にあったお店だった。 目印のお店から、徒歩で向かっていたつもりだったわたしたちは混乱した。 スーパーや目印のお店について、お互いの記憶は一致するものもあれば食い違うこともあり。 けれど、どちらの店も10数年同じ場所にあり続けていたことは事実だった。
事実と記憶も組み合わせて考えたなら、目印のお店に立ち寄った後、わたしたちはまた車に乗って5分ほど離れたいつものスーパーへと向かっていたらしい。
人の記憶なんて、ずいぶんといい加減ねと笑った。 あれほど通っていたはずのスーパーマーケットの場所すら、覚えていない。
今、わたしの持っている記憶たち。実際にあった事実そのものをどれだけ感じ取れていて、そのままに記憶できているのだろうか。事実そのものから、どれほど離れてしまっているのだろうか。
今、自分が知っているたのしかった記憶も、事実以上にたのしかったのかもしれない。つらい記憶も、解釈によって事実に持っていた感情が変形させられてしまい、実際以上につらかったと記憶させられているのかもしれない。
晩ごはんのしたくをするまで、あてもなく、自分のなかで印象的な小学生の頃の記憶を思い出していた。 夏休みが終わって、10月頃までは学校へ行きたくなかったな。宿題のことでしかられたり、教室のよそよそしい雰囲気が好きになれなかったりして、学校を途中で勝手に早退していたと記憶している。けれど、その記憶もどれほどの事実がもとになっているんだろう。
人の記憶なんて、ずいぶんといい加減なものだから、自分にとって良い加減になるよう事実を解釈をし直すことも簡単だろう。 解釈して事実でないものになるならば、やさしい記憶になっていればいい。懐かしくおだやかに、心の根っこを支えてくれるようなあったかな記憶になればいい。
姪や甥たちも一緒に、晩ごはんを食べた。学校であったことをきいたり、感じていたことを教えてもらったり。お話をしながら、ごはんを食べていく。いま過ごしている日常の事実がやさしい感覚のままに甥や姪の記憶になりますように。大きくなって振り返った時、たのしさを思い出せる記憶になりますように。
人の記憶がいい加減だからこそ、小さなころの記憶がやさしい感覚になって残るといいな。そう、思っている。
>>ブルーベリーを摘んだ日のこと