猫が好きだ。猫にアレルギーを持っているけれど、それでも猫が好き。 (動物の毛によるアレルギー症状を持っている)
友人のおうちにお邪魔して、猫さんたちと遊んできた。まだ、生まれて4か月ほどの猫さんたち。実家の猫さんたちは、すでに10年以上生きている高齢猫。その高齢猫さんと比べると、ずいぶんと若い。
ちょいちょいと、猫じゃらしを使っておびきよせると、びよーんびょんと伸びあがる。勢いよく、空中で身体をひねりながら動き回る。この勢いの良さは、最近みることがなかった勢い。いくらか昔に、実家の猫さんで見たことがあるかな。
ひょいひょいと、おもちゃを動かしてみるなら、狩ってやろうという気分いっぱいにこちらをうかがう。見ていないふりのまま、おもちゃに突進し、勢い余って人にとびつく。
びょんびょんと伸びることも、勢い余るところも。隠れる様子も。
その全てが楽しく、愛らしい。
愛らしいという想いは、その猫さんたちそのものが持つ元気さにもむけられるが、もう遠くなった若さへも向けられる。全身を使って びょんびょんと飛んであそぶ猫さんを見ながら、実家の猫さんを思い出したり自分の昔を思い出す。
身体いっぱいに楽しさを表し、後先かんがえず、おもちゃに向かっている猫さん。これくらい、めいっぱい、たのしく遊んでいいんだよな。
時間がたち、経験も増え。考え思うことも、それなりに重ねてきて。気づいたら「たのしい」を全身で表現する機会はなくなってきた。
先日、会った年下の友人たちも、とても愛らしかった。人それぞれに経験して、その上に今があり。これからのことを見て悩んだり、エネルギーを発したりしている。それが、いとおしく感じられる、ほほえましい。
自分自身も、年長の友人からみて、こんな風にほほえましく愛おしく、思ってもらってるんだろうな。
そう思ったら、時間が過ぎる中で生きること、悩んでいても生き続けていること、楽しく生きていること、その全てが大切に、あたたかく思えた。
なにがあっても「生きていること」それ自体が、これほどにあたたかく、愛おしい。
愛おしいという感覚がじんわりと体に染みてくる。
自分のふがいなさにイラッとしたり、足りない感覚へはまりこんで苦しくなることもある。そのネガティブな感覚すら愛おしくたのしいものに思える。
ネガティブも愛おしいと知ったら、いっとき、イラッとしたり、泣きたくなったりしたとしても。結局は、この愛おしい感覚にたどり着く。 もう。何があっても、ほのっと笑顔でいられる。
今、苦しくなっても、結局はこの愛おしさにつながるから、大丈夫。
今、楽しくなれば、そこから周りへとたのしさ湧いていくから、大丈夫。
だから、何があっても大丈夫。
何がなくても大丈夫。
なんだか、全部、大丈夫なんだ。よくわからないけれど、大丈夫だ。
今日も、猫さんたちはかわいらしく。びょんびょんと遊んでもらって、私もうきうき。
友人とお祭りのような夕食を食べて、たのしく一日が終わる。
だから、今日も大丈夫。たくさんたくさん、ありがとう。