好きで読んでいるブログやサイトがいくつかある。ぱらっと隙間な時間ができたら、すぐ、のぞきに行く。
ブログやサイトを見に行く順序も時間も決めているわけではない。それなのに、いつも、その時々によいタイミングで記事が現れる。自分の知りたいこと、考えてみたいことの、はじまりになる言葉が目の前に現れる。
今日、読んだ中では「エンド・オブ・ライフ」(著:佐々涼子)の紹介記事でのことばに、ぐっときた。
この本は、看取りのエキスパートだった森山さん(主人公)が、がんを宣告されてから死に至る8か月のことを書きだしたノンフィクション。「主人公の心に深く刻まれたさまざまな人たちの「命の閉じ方」を物語の横糸として編みながら、過去と現在が行き交うように語られます」。
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例年のことにはなるのだけれど、春先のわたしは調子がそれほど良くない。
躁うつや解離の症状が吹き出しやすくなり、じぶんの心を乗りこなすのに神経を使う。まるで、暴れ馬にでものっているみたい。気を緩めると、振り落とされてしまう。
だから、春は、はらはらどきどきと過ごす。新年度が始まる時期だから、環境もわかりやすい。緊張は、さらに増える。そんな状態で、読んだこの言葉にハッとした。
僕は僕自身であって、『がん患者』という名前の人間ではない。病気は僕の一部分でしかないのに、がんの治療にばかり目を向けていたら、がんのことばかりを気にする人生を送ることになってしまう。闘うのではない。根治を願うのでもない。無視するのでもない。がんに感謝しながら、普段はがんを忘れ、日常生活という、僕の『人生』を生きていきたいんです」
捨てる看護. ほぼ日の学校長だよりNo.120。(文中の太字は、わたしがつけた)
ここで言われているのは「がん患者」と「がん」のつきあいの話だけれど、わたしのことにもあてはまる。今のわたしなら、「がん患者」を「躁うつや解離の症状」に、「がん」を「躁うつ等の気持ちの揺れ」に読み替えるだろう。
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他の悩みや問題について置き換えても、このことばは、かなり心に響いてくる。
わかりやすいように、該当する部分を「〇〇」として置き換えたり、一部の言葉を書き換えてみた。
今気にしている〇〇は、自分の一部分でしかないのに、〇〇にばかり目を向けていたら、〇〇のことばかりを気にする人生を送ることになってしまう。闘うのではない。根治を願うのでもない。無視するのでもない。〇〇に感謝しながら、普段は〇〇を忘れ、日常生活という、自分の『人生』を生きていきたい
一部分でしかない悩みや問題、それだけに目を向けていたら、日常が悩みや問題で埋もれてしまう。
それよりも、問題や悩みはまあ脇に置いといて、自分自身にとっての日常をどう生きようか。じぶんを生きることを考えてみようよ。
そんな励ましだったり、提案だったりする、言葉だった。
ほい!
わたしも、自分の心の不安定を嘆くのやめるわ。
何事もなく日常を過ごせている(心が不安定でない)時間も、当然、在るのだから。その「日常」をみつめて、わたしを生きよう。
わたしを生きる!
そう決めた時、
わたしはどうしたい?
何をやろうか。
どんな気持ちで過ごしたい?
そのために、どんな工夫して過ごしてみようか。
家にこもりがちになっている今、何ができるか。
どうすれば、ご機嫌な私を続けられるか。
考えて、試して。
きょうも、あしたも。はなうた、歌って過ごせるように。
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