感情は生もの。鮮度が命。そして、自分のあたまで止めることが難しい。
ただいま、実感中。
「好き」と言えない。
これが、2月(先月)時点でのわたしのテーマだ。
なぜ、「好き」と言えないか。
それは、自分が好きということが恥ずかしかったから。
自分の好きなものを「好き」だといったら……
誰かに、わたしの「好き」を盗られる、もっていかれる。
好きな気持ちを成仏させられない、最後までみとどけられない。
周りから、わたしの好きを批判される。
そう思っていた、ようだ。
何層も、幾層も。じぶんの心が玉ねぎみたいに、積み重なっていて。
気軽に言えている「好き」の奥に、こんなにもどろどろと不思議で、無くしてしまうことが前提になっている「好き」が隠れているとは思わなかった。
しかも、その「好き」はべっとりと思い。
相手に向かって、べとっと貼りついてしまうような気持ち悪さを同時に持つ。
なぜ、それほどにべっとりと。相手に貼りつくように。しがみつくように。
「好き」と思えるのか。
泣きそうで、泣いてしまって。とっても、苦しい。ぐだぐだな感情。
それなのに、この感情が愛おしく思えて。
べっとりと粘着質な気持ちが気持ち悪くてしんどくなるくせに、この気持ちを持てたことが嬉しい。
変なの、わたし。
もう、ずいぶんと昔の感覚だと思っていたのに。
心に時間がないというのは本当だ。
もうずいぶんと昔にとじこめていたものが、タイムカプセルを開けたみたいになって今ふきだす。
*
感情は、感じているそのときがもっとも扱いやすい。鮮度の高いおさかなみたいな感じ。
あたらしいうちには、薫りもおさかなそのもので、とってもおいしそう。
それなのに、奥に隠して時間がたって。美しくしたいとか、違う何かに作りたいとか。変に手を加えていくうちに、味も落ちるし元の風味のよさも薄れていくことが多い。
感情も、奥に隠すことなくするりと、まず口にしてみる、行動してみる。
そうしていれば、自分のこころにおだやかにいられたかもしれないのに。周りに隠そうと、自分の心から隠そうとしただけで、おかしな動きになって、感情がどろどろになっていく。
感情を自分が表現してみて、それで相手に受け入れられるかは知らない。
自分が感情表現をすることと、相手がどう思うかは別だから。
そうと知っているくせに、相手に自分のことを受け入れて欲しいと思う。そんな自分を、あさましいと思う。
あさましいとしても、感情を止めることが難しい。こんなどろどろと粘着質な気持ち、ないほうがいいと思っていた。だから、抑え込めないかと試してもいた。
そして、そのまま。別のことやりはじめて、抑え込んでいたことを忘れていた。そのはずなのに
……今になって噴き出てきた。
*
そうだとしたら出てきたものは仕方ないね。
どうして、この気持ちが出てきているのか。理由があるように思うから、せっせと自分の心に向き合う。
自分が向き合えた分だけ、ご相談いただく方々のお役に立てそうな感覚を身につけられる。ご相談いただく恋愛ごとの苦しさの部分を、ちょっとだけ深めに共感できるかもしれないと思っている。
自分でじぶんの気持ちと向き合うには、なかなか体力も必要だから。
こんな時こそ、カウンセラーに頼ってみよう。
カウンセラーさんと一緒になって、じぶんの心のもだもだと向き合うことに決めた。
さてと。
この、よくわからない感覚を、どなたにおはなししてみようか。
あのカウンセラーさんがいいか。このカウンセラーさんがいいか。
それとも、一緒にカウンセリングを勉強しているあの人がいいか。
まずいな。思っていたよりも、深くわたしは熱に浮かされているみたい。生ものなはずの感情を、ながく抑え込んでいたからか、じっくりと深く煮えあがっている。
でも、やっぱり。ごめんなさい。
わたしには恋愛とか、それに類する感情がよく実感できないみたいです。覚えてないや。
名前は付けられないけれど、心の表に出てきた感情は、大切に取り扱おう。
その気持ちが自分の内にあることを、自分で認めよう。
そうすれば、わたしの感情も嬉しくなってくれるから。
だから、このべっとりとした「好き」も。行く末を見守ってみることにした。
なにかに化けそこなった「好き」なのか、
新鮮だったはずの「好き」がよどんでおかしくなったのか。
この感覚がほぐれたら、たぶん。ふわっと花開く。
どの人と話をしてみようか。
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