自信を育てるためのふるまいは? -「自分」の壁(養老孟司 著)を読んで

「自分探し」なんてムダなこと。「本当の自分」をさがすよりも、「本物の自信」を育てたほうがいい。[略] あらゆるテーマについて、頭の中にある「壁」を超えた時に、新たな思考の次元が見えてくる。

養老孟司さん著,「自分」の壁。カバーそでに書かれた言葉より

このことばにひかれて読んだ本。「自分」の壁。
読んだときの覚書です。

わたしが読んだ理由

わたしは自信がない。
じぶんが自分であることをいつも不確かに感じているから。

自分の存在を不確かなものに感じるから、こころの奥底にはいつも不安定さがかくれている。
その不安定さは、いつ、こころの表面に浮かぶ上がってくるかわからない。だから、いつも。かすかにびくびく、おびえているじぶんがいる。

おびえたこころの上にもった自信は、ぷよぷよとしたゼリーのような物体のうえに建てたビルのよう。
外からの刺激で、かんたんに、ゆれる。かんたんに崩れる。
中心とする軸を持った、と思っても、土台ごとゆらぐのだから。迷いもはれず。

そんなときに出会った1冊が、養老孟司さんの本。「自分」の壁。

  • 「本物の自信」を育てたほうがいい
  • 頭の中にある「壁」を超えた時に、新たな思考の次元が見えてくる

本のカバー部分に書いてあったことばにひかれて、この本を読んだ。

こころに残った、覚えておきたいもの

詳細を見れば見るほど、全体像はわからなくなる

わたしは自分のことを知りたい。

自分のことをもっと詳しくわかるようになれば、自分であることはどのようなものかがわかる。自分の存在を確かなものとしてわかるようになるはず。 そうすれば、揺れ動くこころの手当てをじぶんでできるはず。

そう感じて自分のことを詳しく知ろうとした。
それなのに、自分を詳しく知ろうとすればするほど、自分が何なのかがわからなくなり。
自分自身のゆらぎも大きく、不安定な状態が広がっていく。自信をもてるものが、見えなくなっていく。

じぶんのことを詳しく知り始めたのに。どうして?
知り始める前よりも不安定な、こころもとない感覚が深くなるのかな。
そんな思いを持っていた。

 ディテール(細部)を積み重ねていけば全体像にたどり着くはず、と学者は考えがちです。しかし、細部を調べれば調べるほど、全体は大きくなってしまうので、全体像からかえって離れてしまう、という面があるのです。

養老孟司 著,「自分」の壁。 p.201

人が理解し全体をながめることのできる情報量には限りがある。
知りたいものを詳しく見ればみるほど、全体像をあらわす情報量もとても大きくなる。

わたしは自分の全体像を知りたくて、自分自身の細部を知ろうとした。
それだけだと、情報が増えすぎてわからなくなるのか。

……なにごとも、程よく。バランスが大切。
じぶんが理解できる情報量のなかに、両方(全体像と細部)の情報をおさめる必要が出る。 自分が理解できる大きさになるよう、どこかで情報を削る必要が出てくるようだ。

しかも。
バランスをとって全体像と細部の情報を自分で見ることができたと思っても、人の意識はすべてをながめられているわけではない。

「自分の意識では処理しきれないものが、この世界には山ほどある」
そのことを体感しておく必要があります。
常に「意識外」のものを意識しなくてはならない。

養老孟司さん著,「自分」の壁。 p.174

人の持つこころ大きさのうち、人が意識できるのは数パーセント。
意識の表面にもってくることができない90パーセント以上は、無意識の部分。
「自分」の全体像がわかった(かもしれない)。と意識しても、それは無意識にまでひろがるこころのすべてに対して、ごくわずかの量。

だから、詳しく細部をみよう。としても、しなくても。
全体像がみえれば、おおよそのところでなんとかなる。

細部が分からないからといって、じぶんの存在がゆらぐことにはならない。

無意識の部分がほとんどであるならば、「自分(私、我)」なんてなくても、なんとかなるのではないか。

だから、いっそう「意識外」を意識する。人の考えが直接触れることのできない何かの存在を意識することで、平衡をたもつことがいる。

世間は会員制のバーみたいなもの、と思えばあきらめもつく

ほんとうに、わたしはここにいてもいいのだろうか。
居場所のなさ、世界に対する居心地の悪さを感じて暮らしてきた。

 世間というものはすでにある。でも、自分は世間というメンバー制クラブのメンバーシップを持っていない。おそらく、世間に馴染んでいる人の多くは、自分がメンバーシップを持っていることに疑いを持っていない。
 居心地の悪さを抱えているか、自然と世間に馴染んでいるか。どちらのタイプかで世の中の見方は変わってきます。

養老孟司さん著,「自分」の壁。 p.81

この居心地の悪さは、「世間」というメンバー制クラブの一員でないと感じているから起きていること。 養老さんも同じような感覚を持っていたのかと親近感をもった。

メンバー制クラブ との表現を見て、会員制のバーを思い出した。
そのバーに入りたいかどうか。通いたいかどうか。
それによってとる行動は変わってくる。

もし、どうしてもいきたい。通いたい気持ちが強いなら、会員になるための方法を調べる。考える。
できれば、行きたいな。くらいの軽い感覚なら、あえてその会員制のバーにこだわる必要もない。
かかわり方、通い方……すべて、じぶんで選べる。

世間も同じ、ということか。

どうしても、その「世間」にまじりたいとじぶんが願うのであれば。
交じるための方法を調べ、考える。

できれば、その「世間」にまじりたいな。程度の感覚ならば、あえてその世間に交じらなくて大丈夫。
知人を通じて交じってもよいし。
交じり方もいろいろと選ぶことができる。

そうだとしたら。
世間にまじらなきゃ。と思いすぎているから、居心地が悪いのか。

かかわり方、その濃度をあれこれ試して、その時じぶんがほどよくあるところに落ち着くようにする。そうすれば、居心地の悪さも少しはやわらぐ。

「世間」は「社会」とも言いかえることができる。

 自分がどこまでできるか、できないか。それについて迷いが生じるのは当然です。 [略] しかし、社会で生きるというのは、そのように迷う、ということなのです。
[略]
 なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。
 しかし、そうやって自分で育ててきた感覚のことを、「自信」というのです。

養老孟司さん著,「自分」の壁。 p.220-221

「社会」や「世間」のなかで、どのようにふるまうか。
そこに迷うのは仕方のないこと。

どのくらいの濃さで「世間」や「社会」とまじわるか。
人とのやりとりのなかで、程よい距離を見つけていくこと。

程よい距離を見つけたいと試してくことでできた、程よい距離を見つけるための感覚。それが「自信」になる。ということか。……でも。それを「自信」とよぶのかは、わたしのなかではよくわからない。

「世間」が会員制のクラブだと思えば、居心地の悪さについて不必要におちこむことはなくなりそう。あきらめもつく。

「自分」はじぶんだけではわからない

 自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きをしているからであって、「矢印はここ」と決めてくれているからです。

養老孟司さん著,「自分」の壁。 p.19

詳しい情報の書かれた地図があっても、そのままでは地図は役立たない。現在位置がどこであるか示すもの(矢印)があって、はじめて役立つものとなる。生物学的な「自分」も、現在位置を示す矢印のようなもの。周りにある世界に対して、自分はどこにいるのかを示す矢印ではないか、と養老さんはいう。

「自分」とは?
そのことを考えるより、世界のなかでの立ち位置をみつけること。そちらのほうが、自分を知る近道かもしれない。

それならば。世間ともあるていどは交わることがいるだろう。
けれど、世間のなかで居心地の悪さを感じることが多いわたし。

居心地の悪さを感じない世界をさがすか。
居心地の悪さを減らす工夫をとるか。

どう、世間と交わっていこうか?

気になったこと、ぬきがき

人体の設計図は遺伝子情報の1.5%しかない

(遺伝子の)解読が終わってわかったのは、遺伝子イコール人体の設計図ではない、ということでした。たのぱく質の設計にかかわっているのはせいぜい遺伝子の中の1.5パーセントで残りの98.5パーセントは、そんなことにかかわっていないのです。
では、何をしているのか。実はまだ、よくわかっていません。しかし30パーセントほどの遺伝子は、もともとは外部のウイルスだったらしい、ということもわかってきました。

養老孟司さん著,「自分」の壁。 p.54

「残り98.5パーセント」の数値で思い出したのは、潜在意識(無意識)のこと。無意識はこころの9割以上になる。意識(こころの表面)にでてこなくても、強い影響力を持っている。

遺伝子にとっての「外部のウイルス」を、自分の外にある世間とよむならば。無意識の30パーセントくらいは、世間の意識とつながっているのかもしれない。

ただの数値からの連想だけ。根拠あるものではないけれど。
意識されないこころの中に、3割くらい世間の意識がある。そう思うなら、世間と全く交わらないというわけにはいかないと感じる。

それにしても、遺伝子情報のなかにある人体の設計図は、全体の1.5パーセントとは!
とても少ない。
もしかすると、人体の設計図部分がいま表に出てきている意識を作っていたりして……。

人間が現実から離れていくのは、仕方がないこと

この本では「人間が現実から離れていく」ことは、しかたのないこととしていた。けれども、現実から離れていいというわけではなく、地に足つける方法を試しながら過ごすことの大切さを書いてあった。

現実離れを抑える方法として書かれてあったのは次の3つ。

  • 「参勤交代をする」(定期的に自然豊かな場所ですごす、暮らす)
  • 「意識外のことを意識せよ」
  • 「地に足をつけなさい」

 昔の大人はよく、
「現実をちゃんと見なさい」といったものです。 [略]
世間がきちんとしている時代ならば、世間ときちんと付き合えば、現実を見ていることになったかもしれません。しかし、今はその世間自体が怪しくなってきています。昔ほど強固なものではなくなった。
そうだとすると、人間が意識的に作らなかったものと向き合うのがいい。

養老孟司さん著,「自分」の壁。 p.203

人間が意識的に作らなかったもの。それは自然界。
自然のなかに出てみること。意識を向けること。それが、現実を見ることにつながるという。

自然にふれるのは、じぶんの中の何かをリセットする、再設定するためだと。わたしも体感している。
自然にふれると、自分のここちよさをとりもどしていく 感覚がある。日常の中でこわばったからだのどこかをときほぐす時間になる。

こわばりをときほぐし、 意識のものさしのめもりを調整する。
そして、改めて、
世間や現実を見る。

全体をフラットな感覚のなかで見る工夫は、なにかしら、いつも必要になるようだ。

まとめ

自分だけで考えていても「自信」はみつからないことはわかった。

自信を育てるには、 世間と程よく付き合う中で、じぶんの役割をみつけようとあれこれと試す。自分から周りへと働きかけることは大切なことらしい。
そして、目で見えたり、意識できる世界だけでなく、意識外にあるものも感じながら過ごす。

世間の中で、じぶんにとっての程よい感覚が分かるときには、「自信」もわかってくることだろう。

書籍情報

  • タイトル:「自分」の壁
  • 著者: 養老孟司
  • 出版情報:新潮新書、2014年

田村 洋子

”気配は答え。気配は本物。
気配を感じて、じぶんを生きる。”
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